王莹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/22 17:58 UTC 版)
ワン・イン 王 瑩 |
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![]() 1930年代の王瑩 彼女は遺影や写真をあまり残さず、藍蘋時代の江青と一緒に写った写真も一枚しか残っていない。 |
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本名 | 喻志華 |
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生年月日 | 1913年3月8日 |
没年月日 | 1974年3月3日(満60歳没) |
出生地 | ![]() |
ジャンル | 俳優(映画・舞台) |
主な作品 | |
中国映画『放下你的鞭子』『台児庄の戦い』舞台『賽金花』 | |
王瑩(ワン・イン、1913年3月8日[1] - 1974年3月3日)、中国の映画女優、脚本家、作家、歌手。本名喻志華、別名王克勤、幼名桂貞。
文革にて江青に反乱分子として投獄され迫害された中国の代表的女優の一人。女優・藍蘋時代からの江青の『最大のライバル』であった。
目次
生涯
人気子役からスター女優へ
安徽省蕪湖出身。実母は音楽の教師で、その影響で幼い頃から歌うのを好み周囲からは「小さいスター歌手」と呼ばれていたと言われている。だが、彼女が8歳の時に実母が死去、継母に虐待されたばかりか実父にも身を売られてある商店主の童養媳(トンヤンシー)となり、大変不幸な少女時代を過ごす。そんな苦境から逃れるため漢口で学校を設立・運営する叔母を頼り、その縁から翌年には上海芸術劇社に参加。「炭坑夫」「西線無戦事」等の話劇にて子役として出演し、天才子役としての評判を獲得。
1928年に上海芸術大学へ入学し、文学を勉強する傍ら学生会係の代表を担当。その一方で王克勤名義で長沙・湘雅の病院看護婦学校に学んだり、左翼運動から中国共産党に入党(1930年)して何度か検挙されている。左翼活動の中で女流作家の謝氷瑩と知己になり、謝から自分の名前の中の“瑩”(=光沢のある石)の字を彼女に贈り、そこから芸名の王瑩が出来た[2]。
その後、王は復旦大学文学科に入学。1932年以降は、舞台「圧迫」「少奶奶的扇子(若奥さんの扇子)」「酒店(ホテル)」「約翰·曼利(ジョン・曼利)」などに出演するとともに、映画でも「女性的吶喊(女の喚声)」「鉄板紅涙録(鉄板の赤い涙の泉)」「同仇(共に憎む)」などの作品で主演。1934年には演劇日華親善活動の一環として日本に渡り東京大学に留学、演技などを学ぶものの日華親善の目的を果たせぬまま失意のうちに翌年帰国する。
藍蘋=江青との『確執』
1935年に映画「自由神」で主演となると共に同タイトルの主題歌も担当するが、この時は端役として「娜拉(人形の家)」ノラ役で舞台デビューしたばかりの藍蘋と共演[3]することとなり、後々までに及ぶ藍蘋=江青との因縁が出来る。
二人が真正面から衝突するのは、翌1936年の舞台「賽金花」(注:実在人物伝)での主役・賽金花を巡ってのことになる。いつも同じ話劇や映画で端役や脇役に回され『ライバル』王瑩を目の敵にしている藍蘋に対し、キャリアのないまま突然ちやほやされてるだけの藍蘋に対し子役時代からの芸歴の長いベテランとしての自負がある王瑩が一歩も引かず、止む無く原作者は両者を主役として二組公演を提案した。
だが、この提案に対し金山や王瑩が所属劇団の上海業余劇人協会を集団脱退、新たに40年代劇社を結成して独自に舞台「賽金花」の公演に踏み切る。「賽金花」は中国各地で3万人超の観客が集まり、国内約20ヶ所の舞台も各地で大ヒット・好評を博した。一方王瑩らが脱退した業余劇人協会は舞台「大雷雨」で対抗し藍蘋はその女主人公・カトリーナを演じるが、評判は芳しくなかったばかりか、その作品の演出家とのスキャンダルが噴出。藍蘋の内縁の夫・唐納の自殺未遂もあって、この件を機に藍蘋は映画会社から解雇され流浪を余儀なくされる。結果として「賽金花」での騒動は江青(=藍蘋)の毛沢東との出会い・結婚のきっかけとなったのだが、その一方で王瑩に対する文化大革命での迫害につながった。
舞台とロマンスと
「賽金花」で共演した金山とはその後生活を共にし始め[4]、日中戦争では上海救国演劇の副団長を務め、さらに戦時中の人民の士気を上げるために「蘆溝橋」「放下你的鞭子(あなたの鞭をおろす)」「台児庄之戦(台児庄の戦い)」などの作品を中国各地で巡回公演する。
だが金山とは性格の不一致が目立つ様になり、王瑩も1937年に同じ共産党員で革命作家・スパイの謝和庚と知り合う[5]。王も謝も既婚で配偶者がいたが、両者とも夫婦関係が冷え込んでいたので、正式結婚を前提とした不倫関係だった[6]。
アメリカでの活動、終戦、結婚、帰国
1942年に王瑩はアメリカに留学。『夫』謝和庚も同行し、現地ではアメリカのノーベル賞作家パール・バックとの親交を深めるばかりか、1943年にはホワイトハウスで「放下你的鞭子」を公演。その時アメリカのファーストレディーだったエレノア・ルーズベルトとの写真を残している。第二次世界大戦・太平洋戦争の終結をアメリカで迎え、更に東南アジアまでその活躍の場を広げていき1955年に中華人民共和国となった中国に帰国。帰国後は映画脚本創作所、北京映画製作所で脚本を執筆する他、「両種美国人(2種類のアメリカ人)」、自叙伝となる「宝姑(宝の姑)」などの著述活動にも専念する。かつての共演者でもあり不仲な『夫』であった俳優・金山との合作「台児庄之戦」も残されている。
文革による迫害、死
1967年に文化大革命が盛んとなると、江青により夫・謝和庚と共に反乱分子として投獄・迫害される。この時、ファーストレディー(女権力者)となった江青ら「四人組」の間で、女優時代に舞台「賽金花」に出られなかった鬱憤を晴らすためだけに、名前を消され、あらぬ嫌疑をかけられて30年代の黒いスター、アメリカのスパイ、囚人番号6742と呼ばれていた。晩年には、胃を悪くした上麻痺の症状がありほとんど口をきけなかったことから、江青により食事に何らかの細工がされていたと思われている。 1974年3月3日に獄死(享年60)。
死後
江青ら四人組が逮捕されると、夫・謝和庚や関係者による名誉回復のための運動が本格的に行われ、1979年7月6日に名誉回復。彼女の伝記「洁白的明星——王莹(清らかな白いスター・王瑩)」も出版された。1980年代になり1940年代に書かれた遺稿が書籍化され、公刊された(英語・中国語のみ)。2005年に夫(謝和庚、1912年12月25日-2005年11月1日)が死去、翌年子孫によって改めて夫と共に立派な墓に葬られた。軽く座る王瑩の石膏像も残されている。
脚注
- ^ 殆どの関連ウェブサイトでは1913年生まれと紹介されているが、夫との合葬墓には1915年生まれと刻まれている。また、夫が存命扱いされていたり、実際とは異なる没年が中国のウェブサイトで発表されていることも多い。
- ^ ただ、この改名は中国共産党の指令によるという説もある。
- ^ しかも、この時は藍蘋も主役を狙っていた。
- ^ 正式結婚したとの説もあるが、正確な結婚年代がどこのサイトにも書かれていない上『金山失恋了(失恋した)』とあるサイトもあるので、籍を入れない事実婚であった可能性が高い。
- ^ 伝記では「彼女はおおらかで気前が良くて、美しくてひっそりとしていて、謝和庚に一目惚れをさせた」とあり、プライド高く嫉妬深い江青とは好対照な朗らかで穏やかな性格だったことが伺える。
- ^ 王瑩と金山は1941年に離婚・謝和庚の方も1950年に妻と離婚している。
関連項目
- 江青:藍蘋時代から一方的にライバル視するが、女優の世界ではことごとく王瑩に敗れており、これに恨みを飲んで後の文革での迫害につながった。また、生涯主演映画には恵まれず、話劇「娜拉(人形の家)」のノラ役である一作品を除いて全て脇役・端役を演じていた。
外部リンク
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