王著 (元)とは? わかりやすく解説

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王著 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 08:48 UTC 版)

王 著(おう ちょ、? - 1282年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人の一人。丞相のアフマド・ファナーカティーの暗殺事件の実行犯の一人であったことで知られる。

概要

『元史』世祖本紀や阿合馬伝などによると、アフマド暗殺事件が起こったころには益都千戸の地位にあった[1]。王著は悪を憎む正義感の強い人物で、かねてよりアフマドの振るまいに憤りを覚え、密かに大銅鎚を鋳造してアフマドを撃つことを念願していたという[2]

1282年(至元19年)3月、クビライ・カアンが皇太子チンキムとともに北方に巡幸すると、大都に残留した丞相のアフマド・ファナーカティーの暗殺計画が行われることとなった[3]。3月17日朝、王著らはまずチベット僧を装う2僧を中書省に派遣し、「夕方、皇太子のチンキムが国師とともに来たり仏事を建てます」と申し送った[3]。中書省はこの伝言の真偽を疑い、東宮の官である高觿に確認したところ、高觿とその同僚たちも全く仏僧らを知らなかった[3]。高觿がチベット語で「皇太子と国師は今どこにいるのか」と尋ねたところ、二僧は顔色を変え、今度は漢語で詰問すると二僧は答えることができなくなった[3]。高觿は二僧を捕らえて尋問したが自白させることはできず、そこで忙兀児・張九思らとともに東宮の衛士及び官兵を集め変事に備えた[3]

一方、王著は崔総管を枢密副使の張易の下に派遣し、偽の令旨により夜間に東宮前で会することを命じた[3]。高觿は張易らが東宮外に駐屯しているのに気づくと張易に事情を問いただし、張易は渋ったものの最後には「皇太子が来てアフマドを誅殺するつもりなのだ」と高觿に耳打ちした[3]。夜二鼓(午後10時)、偽太子の一行は健徳門から都城に入り、高觿らの守る宮城西門に至った[4]。高觿らが人馬の声や灯篭の明かりにより偽太子一行の接近に気づいた後、その内の一人が門を開くよう呼びかけた[4]。しかし高觿は張九思に「普段より殿下(チンキム)が帰還される時、必ずオルジェイと賽羊の二人を先に赴かせ、二人を確認した後に門を開いている」と述べ、オルジェイらの名を呼んだが返答はなかった[4]。そこで更に高觿が「皇太子が平日にこの門に来たことは未だかつてなかったが、今何のために来たのか」と問いかけたところ、答えに窮した偽太子一行は南門に向かったため、高觿は張子政らを西門に残して自らも南門に向かったものの、この時既に王著らによって丞相のアフマドと左丞の郝禎らは殺害されてしまっていた[4]。事件が勃発したのはまだ暗い時間帯で、衛士たちは混乱していたが、張九思は高觿とともに「この者たちは賊である」と叫んで衛士を指揮し、実行犯の王著らは捕らえられたという[4][5][6]。以上が『元史』張九思伝や高觿伝に基づくアフマド暗殺事件のあらましであるが、事件の推移には不審な点が多く、皇太子チンキムが事件の背後にいたことが意図的に隠蔽されているのではないかと考えられている[7]

翌日、中丞のエセン・テムルと高觿が駅馬を用いて上都に滞在していたクビライの下に至り事の経緯を報告すると、激怒したクビライは枢密副使のボロト・司徒のコルゴスン・参政のアリーらを大都に派遣し、暗殺事件を起こした者達を討つよう命じた。コルゴスンらによって高和尚は高梁河で捕らえられ、王著・高和尚・張易らは事件の首謀者として処刑され、市に晒された[8]。『元史』阿合馬伝によると、処刑の間際に王著は「天下の為に害を除いた。今死すとも、後に必ず我が為にそのことを書き記す者があらわれるだろう」と述べたという[9]。クビライも後にアフマドの不正が明らかになる中で、王著の行ったことは正しかったと認めたと伝えられる[10]

脚注

  1. ^ 片山 1983, p. 28.
  2. ^ 『元史』巻223列伝120阿合馬伝,「十九年三月、世祖在上都、皇太子従。有益都千戸王著者、素志疾悪、因人心憤怨、密鋳大銅鎚、自誓願撃阿合馬首」
  3. ^ a b c d e f g 片山 1983, p. 29.
  4. ^ a b c d e 片山 1983, p. 30.
  5. ^ 『元史』巻169列伝56高觿伝,「三月十七日、觿宿衛宮中、西蕃僧二人至中書省、言今夕皇太子与国師来建仏事。省中疑之、俾嘗出入東宮者、雑識視之、觿等皆莫識也、乃作西蕃語詢二僧曰『皇太子及国師今至何処』、二僧失色。又以漢語詰之、倉皇莫能対、遂執二僧属吏。訊之皆不伏、觿恐有変、乃与尚書忙兀児・張九思、集衛士及官兵、各執弓矢以備。頃之、枢密副使張易、亦領兵駐宮外。觿問『果何為』、易曰『夜後当自見』。觿固問、乃附耳語曰『皇太子来誅阿合馬也』。夜二鼓、忽聞人馬声、遥見燭籠儀仗、将至宮門、其一人前呼啓関、觿謂九思曰『他時殿下還宮、必以完沢・賽羊二人先、請得見二人、然後啓関』。觿呼二人不応、即語之日『皇太子平日未嘗行此門、今何来此也』。賊計窮、趨南門。觿留張子政等守西門、亟走南門伺之。但聞伝呼省官姓名、燭影下遥見阿合馬及左丞郝禎已被殺。觿乃与九思大呼曰『此賊也』。叱衛士急捕之、高和尚等皆潰去、惟王著就擒。黎明、中丞也先帖木児与觿等、馳駅往上都、以其事聞。帝以中外未安、当益厳武備、遂労使遣亟還。高和尚等尋皆伏誅」
  6. ^ 『元史』巻169列伝56張九思伝,「十九年春、世祖巡幸上都、皇太子従、丞相阿合馬留守。妖僧高和尚・千戸王著等謀殺之、夜聚数百人為儀衛、称太子、入健徳門、直趨東宮、伝令啓関甚遽。九思適直宿宮中、命主者不得擅啓関、語在高觿伝。賊知不可紿、循垣趨南門外、撃殺丞相阿合馬・左丞郝禎。時変起倉卒、且昏夜、衆莫知所為、九思審其詐、叱宿衛士併力撃賊、尽獲之。賊之入也、矯太子命、徴兵枢密副使張易、易不加審、遽以兵与之、易既坐誅、而刑官復論以知情、将伝首四方。九思啓太子曰『張易応変不審、而授賊以兵、死復何辞。若坐以与謀、則過矣、請免伝首』。皇太子言于帝、遂従之。九思討賊時、右衛指揮使顔進在行、中流矢卒、怨家誣為賊党、将籍其孥、九思力辯之、得不坐」
  7. ^ 片山 1983, p. 39.
  8. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年]三月辛酉朔……益都千戸王著、以阿合馬蠹国害民、与高和尚合謀殺之。壬午、誅王著・張易・高和尚于市、皆醢之、餘党悉伏誅」
  9. ^ 『元史』巻223列伝120阿合馬伝,「中丞也先帖木児馳奏世祖、時方駐蹕察罕脳児、聞之震怒、即日至上都。命枢密副使孛羅・司徒和礼霍孫・参政阿里等馳駅至大都、討為乱者。庚辰、獲高和尚于高梁河。辛巳、孛羅等至都。壬午、誅王著・高和尚于市、皆醢之、并殺張易。著臨刑大呼曰『王著為天下除害、今死矣、異日必有為我書其事者』」
  10. ^ 『元史』巻223列伝120阿合馬伝,「阿合馬死、世祖猶不深知其姦、令中書毋問其妻子。及詢孛羅、乃尽得其罪悪、始大怒曰『王著殺之、誠是也』」

参考文献

  • 『元史』巻169列伝56高觿伝
  • 『元史』巻169列伝56張九思伝
  • 『元史』巻223列伝120阿合馬伝
  • 片山共夫「アーマッドの暗殺事件をめぐって:元朝フビライ期の政治史」『九州大学東洋史論集』11巻、1983年



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