人気子役からスター女優へ
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安徽省蕪湖出身。実母は音楽の教師で、その影響で幼い頃から歌うのを好み周囲からは「小さいスター歌手」と呼ばれていたと言われている。だが、彼女が8歳の時に実母が死去、継母に虐待されたばかりか実父にも身を売られてある商店主の童養媳(トンヤンシー)となり、大変不幸な少女時代を過ごす。そんな苦境から逃れるため漢口で学校を設立・運営する叔母を頼り、その縁から翌年には上海芸術劇社に参加。「炭坑夫」「西線無戦事」等の話劇にて子役として出演し、天才子役としての評判を獲得。 1928年に上海芸術大学へ入学し、文学を勉強する傍ら学生会係の代表を担当。その一方で王克勤名義で長沙・湘雅の病院看護婦学校に学んだり、左翼運動から中国共産党に入党(1930年)して何度か検挙されている。左翼活動の中で女流作家の謝氷瑩と知己になり、謝から自分の名前の中の“瑩”(=光沢のある石)の字を彼女に贈り、そこから芸名の王瑩が出来た。 その後、王は復旦大学文学科に入学。1932年以降は、舞台「圧迫」「少奶奶的扇子(若奥さんの扇子)」「酒店(ホテル)」「約翰·曼利(ジョン・曼利)」などに出演するとともに、映画でも「女性的吶喊(女の喚声)」「鉄板紅涙録(鉄板の赤い涙の泉)」「同仇(共に憎む)」などの作品で主演。1934年には演劇日華親善活動の一環として日本に渡り東京大学に留学、演技などを学ぶものの日華親善の目的を果たせぬまま失意のうちに翌年帰国する。
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人気子役からスター女優へ
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「王瑩 (女優)」の記事における「人気子役からスター女優へ」の解説
安徽省蕪湖出身。実母は音楽教師で、その影響で幼い頃から歌うことを好み、周囲からは「小さなスター歌手」と呼ばれていたと言われている。だが、彼女が8歳の時に実母が死去、継母に虐待されたばかりか実父にも身を売られてある商店主の童養媳(トンヤンシー)となり、大変不幸な少女時代を過ごした。その苦境から逃れるため、漢口で学校を設立・運営する叔母に頼り、その縁から翌年に上海芸術劇社に参加した。「炭坑夫」「西線無戦事」(西部戦線異状なし)等の話劇にて子役として出演し、天才子役としての評判を獲得した。 1928年に上海芸術大学に入学し、文学を勉強しながら学生会の代表を担当した。その一方で王克勤名義で長沙・湘雅病院の看護婦学校で勉強し、左翼運動に熱中した故に1930年に中国共産党に入党して、何度も検挙されていた。左翼活動をする中で女流作家の謝氷瑩と知己になり、謝から名前の中の“瑩”(=光沢のある石)の字をもらい、そこから芸名の王瑩が出来た。 その後、王は復旦大学文学科に入学。1932年以降は、舞台「圧迫」「少奶奶的扇子」(若奥様の扇子)「酒店」(ホテル)「約翰·曼利」(ジョン・マンレイ)などに出演するとともに、映画でも「女性的吶喊」(女の喚声)「鉄板紅涙録」(鉄の板と紅い涙)「同讐」(共に憎む)などの作品で主演。1934年に演劇日華親善活動の一環として日本に渡り東京大学に留学したが、演技などを学んだものの日華親善の目的を果たせぬまま失意のうちに翌年帰国した。
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