獨裁官とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 社会 > 身分 > > 獨裁官の意味・解説 

独裁官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/10 18:17 UTC 版)

独裁官(どくさいかん)、ディクタートルラテン語: dictātor)は、共和政ローマ政務官。あらゆる領域に及ぶ強大な権限を有する政務官であり、国家の非常事態に1人だけ任命された。「独裁者」の語源。


注釈

  1. ^ ただし、独裁官に対するインテルケッシオ(拒否権)、プロウォカティオ(上訴権)共に有効であったとする説もある[1]
  2. ^ 歴史家リウィウスによる説。もっともリウィウスも「諸説ある中でもっとも古い記述によるもの」としている[13]

出典

  1. ^ a b Drogula, p. 446.
  2. ^ Drogula, pp. 445–446.
  3. ^ Drogula, p. 445.
  4. ^ Drogula, p. 447.
  5. ^ Drogula, pp. 447–449.
  6. ^ Drogula, p. 448.
  7. ^ ファースティー・カピトーリーニー「・・・ガーイウス・ユーリウス・ガーイウスの子・ガ-イウスの孫・カエサル、永久独裁官。公務のため」
  8. ^ リーウィウス『梗概』116「元老院が数々の栄誉、祖国の父と呼ばれる権利、永遠の身体不可侵権と独裁官権限を決定した後、・・・」
  9. ^ Martin Jehne, Der Staat des Dicators Caesar, Köln/Wien 1987, p. 15-38.
  10. ^ Stefan Weinstock, Divus Julius, Oxford 1971.
  11. ^ Weigel, p. 338.
  12. ^ Rotondi, p. 131.
  13. ^ リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』岩谷智訳、京都大学学術出版会、2008年、160頁


「独裁官」の続きの解説一覧

独裁官(紀元前358年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:16 UTC 版)

ガイウス・スルピキウス・ペティクス」の記事における「独裁官(紀元前358年)」の解説

紀元前358年、ガイウス・スルピキウスは独裁官に任命されラティウムのペドゥム(en)にまで侵攻したガリア人対処することとなった。ガイウス・スルピキウスは自軍野営地強化努めたが、兵士達はこれに不満であり、即戦決着望んだこのためガイウス・スルピキウスは敵軍向かい、困難も無くこれに勝利した。この勝利に対して二度目凱旋式栄誉与えられ相当量の金も含む大量戦利品と共にローマ帰還した。 「マルクス・フリウス・カミルス以来ガリアに対してこのような勝利を収めたのはガイウス・スルピキウスのみであった。彼は戦死したガリア兵が身に着けていた金を戦利品として収集したが、それは相当な量に達した。この金はカピトリヌスの丘神々奉納された」 (ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、VII, 15

※この「独裁官(紀元前358年)」の解説は、「ガイウス・スルピキウス・ペティクス」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前358年)」を含む「ガイウス・スルピキウス・ペティクス」の記事については、「ガイウス・スルピキウス・ペティクス」の概要を参照ください。


独裁官(紀元前280年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/24 19:54 UTC 版)

グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス」の記事における「独裁官(紀元前280年)」の解説

カピトリヌスのファスティによれば、カルウィヌスは紀元前280年任命されている。副官の名前はファスティが破損しており不明エペイロスピュロスとの戦争のために両執政官出征しており、翌年選挙のための民会開催することが目的であった

※この「独裁官(紀元前280年)」の解説は、「グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前280年)」を含む「グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス」の記事については、「グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス」の概要を参照ください。


独裁官(紀元前257年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/19 05:09 UTC 版)

クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の記事における「独裁官(紀元前257年)」の解説

紀元前257年にガッルスは独裁官(ディクタトル)に就任するが、軍事目的ではなくラティウム祭祀ルディ競技会)を執り行うためのものであった。これは歴史的に見て例外的なものであった(非軍事目的で独裁官が置かれることはあるが、選挙管理疫病平癒を願う「釘打ち儀式」のためで、祭祀のためと記録があるのはこのときのみである)。このときは第一次ポエニ戦争最中であり、両執政官共にシケリア出征していた。ローマで競技会開催するために、宗教儀式に通じた高位人物を必要としたがガッルスが選ばれたものである

※この「独裁官(紀元前257年)」の解説は、「クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前257年)」を含む「クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の記事については、「クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の概要を参照ください。


独裁官(紀元前360年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:15 UTC 版)

クィントゥス・セルウィリウス・アハラ」の記事における「独裁官(紀元前360年)」の解説

紀元前360年、アハラは独裁官に就任する執政官ガイウス・ポエテリウス・リボ・ウィソルスがティブル(現在のティヴォリ)を攻撃すると、ガリア人がこれの支援のために侵攻してきたためであり、アハラはこれと戦ったマギステル・エクィトゥム騎兵長官副司令官)はティトゥス・クィンクティウス・ポエヌス・カピトリヌス・クリスピヌスであった両軍ローマのコリナ門(en近く激突し、アハラはガリア軍に勝利した戦いは、コリナ門からそう遠くない場所で発生した市民兵士)達は彼らの両親、妻、子供見守る中で奮戦した遠くから見られているだけでも、兵士十分に勇気付けられであろうが、今回戦いは彼らの眼前戦われた。兵士心の中には栄誉親族対す愛の炎燃え上がった両軍共に損害大きかったが、最後にガリア軍は撃退された。 リウィウスローマ建国史』、VII. 11

※この「独裁官(紀元前360年)」の解説は、「クィントゥス・セルウィリウス・アハラ」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前360年)」を含む「クィントゥス・セルウィリウス・アハラ」の記事については、「クィントゥス・セルウィリウス・アハラ」の概要を参照ください。


独裁官(紀元前327年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:11 UTC 版)

マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前331年の執政官)」の記事における「独裁官(紀元前327年)」の解説

紀元前327年執政官新たに勃発した第二次サムニウム戦争集中しており、敵地深く侵攻した二人呼び戻すことは国益反するため、執政官プブリリウス・ピロをプロコンスルとして引き続きインペリウム保持させる事が決定されもう一人執政官コルネリウス・レントゥルスによって、マルケッルスケントゥリア民会開催執政官選挙実施のための独裁官に任命された。彼はスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスマギステル・エクィトゥム騎兵長官)に指名したが、この独裁官就任パトリキのみで構成される鳥占官アウグル)によって瑕疵があったとされた。護民官は、この決定プレブスであるマルケッルスが独裁官になることを阻止しようしたものであると非難したが、このためインテルレクス(期間5日最高責任者)が立てられ14人目ルキウス・アエミリウス・マメルキヌス・プリウェルナスがようやく執政官選挙実施しガイウス・ポエテリウス・リボ・ウィソルスルキウス・パピリウス・クルソルが翌紀元前326年執政官に選出された。

※この「独裁官(紀元前327年)」の解説は、「マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前331年の執政官)」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前327年)」を含む「マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前331年の執政官)」の記事については、「マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前331年の執政官)」の概要を参照ください。


独裁官(紀元前340年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:11 UTC 版)

ルキウス・パピリウス・クラッスス (紀元前336年の執政官)」の記事における「独裁官(紀元前340年)」の解説

紀元前340年ローマ軍ウェスウィウス戦いen)でラティウム同盟軍に勝利したものの、執政官プブリウス・デキウス・ムス戦死もう一人執政官ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥスローマ戻って凱旋式実施したが、その後病を得た。このため、トルクァトゥスはクラッススを独裁官に任命したクラッススルキウス・パピリウス・クルソルマギステル・エクィトゥム騎兵長官)に指名したアンティウム現在のアンツィオ)軍はオスティアアルデア、ソロニウムに農村地帯襲撃をかけてきたが、クラッスス顕著な勝利を得ることはできなかった。

※この「独裁官(紀元前340年)」の解説は、「ルキウス・パピリウス・クラッスス (紀元前336年の執政官)」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前340年)」を含む「ルキウス・パピリウス・クラッスス (紀元前336年の執政官)」の記事については、「ルキウス・パピリウス・クラッスス (紀元前336年の執政官)」の概要を参照ください。


独裁官(紀元前344年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:17 UTC 版)

プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前352年の執政官)」の記事における「独裁官(紀元前344年)」の解説

紀元前344年執政官ガイウス・マルキウス・ルティルスティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥスは、カピトリヌスの丘にユノー・モネータ神殿en)を建立した。これは前年の独裁官ルキウス・フリウス・カミッルスが、アウルンキとの戦いにあたって約束していたものであったティトゥス・リウィウスによると、建立式の後に石の降り、空が真っとなってしまった。この超常現象市民は不安となり、元老院シビュラの書にもあたり、祭日定めるため独裁官を設置することとした。プブリコラが独裁官に、クィントゥス・ファビウス・アンブストゥスがマギステル・エクィトゥム騎兵長官)に指名された。ローマ人だけでなく、近隣の住民祈祷するよう決定され各国ごとの祭日定められた。

※この「独裁官(紀元前344年)」の解説は、「プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前352年の執政官)」の解説の一部です。
「独裁官(紀元前344年)」を含む「プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前352年の執政官)」の記事については、「プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前352年の執政官)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「獨裁官」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



獨裁官と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

獨裁官のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



獨裁官のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの独裁官 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのガイウス・スルピキウス・ペティクス (改訂履歴)、グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス (改訂履歴)、クィントゥス・オグルニウス・ガッルス (改訂履歴)、クィントゥス・セルウィリウス・アハラ (改訂履歴)、マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前331年の執政官) (改訂履歴)、ルキウス・パピリウス・クラッスス (紀元前336年の執政官) (改訂履歴)、プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前352年の執政官) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS