独裁官と監察官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:13 UTC 版)
「ガイウス・マエニウス」の記事における「独裁官と監察官」の解説
紀元前320年、独裁官に指名されるが、戦争目的ではなくローマの上流階級の何人かとカプアの指導的市民が企てた陰謀を調査するためであった。マエニウスはマルクス・フォスリウス・フラッキナトルをマギステル・エクィトゥム(副官)に任命し、両名ともに詳細な調査を行ったためにローマ貴族達を不愉快にさせたが、結局カプアは紀元前319年にローマに対して反乱した。調査された貴族達はマエニウスとフォスリウスを告発したため、状況は危険なものとなった。両名は辞任し、執政官ルキウス・パピリウス・クルソルとクィントゥス・プブリリウス・ピロに裁判を依頼した。両執政官はこれに合意して裁判が行われたが、マエニウスもフォスリウスも無罪となった。 彼の評判は傷つかず、紀元前318年にはルキウス・パピリウス・クラッススと共に監察官(ケンソル)に就任した。当時フォルム・ロマヌムに木造の競技場を仮設して競技会が実施されていたが、これをより多くの観客が見られるように、任期中にフォルムの近くにバルコニー付きの建物を作った。この建物は彼の名前をとって「マエニアナ」と呼ばれた。紀元前314年、第二次サムニウム戦争の最中に、カプアに対する疑いが再び持ち上がった。これはオウィウスとノウィウスのカラウィウス兄弟(en)が指導したもので、カンパニアをローマから離反させてサムニウムと同盟するというものであった。この警告に対し、ローマは再びマエニウスを独裁官に任命、副官は彼が信頼するフォスリウスが再度指名された。しかし、独裁官による調査が開始されて反乱の証拠が明らかとなる前に、兄弟は自殺した。
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