独裁官就任と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:43 UTC 版)
「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事における「独裁官就任と死」の解説
詳細は「コルネリウス法」および「スッラ体制」を参照 スッラは残酷に、そして傲慢に内戦を勝ち抜いた。彼の凱旋式には多くの外国人使節が臨席したが、市民権を持つ町からの参加者はいなかった。 ウァレリウス・マクシムス『有名言行録』2.8.7 スッラはローマに入った紀元前82年に支配体制の要として長年選出されていなかった独裁官への就任を宣言した。通常独裁官は執政官によって指名されるが、普段は執政官選挙開催のために選出されるインテルレクスとして当時プリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)であったウァレリウス・フラックスが指名され、彼の召集したケントゥリア民会において、選挙の開催ではなく、スッラを「法の制定と国家再建のための独裁官」に選出する法を通過させた(Lex Valeria de Sulla dictatore)。同時に過去執政官やプロコンスルとして行った行為も承認され、将来行う処置についても承認された。通常半年の任期も定められていないことから、国家再建のためのフリーハンドが与えられたとも考えられ、キケロはこのウァレリウス法を、時代の要請とはいえ僭主を生み出してしまったと批判している。 スッラ体制はユリウス・カエサル、及びアウグストゥスによる帝政ローマの始まりまで続く最末期の共和政ローマにおける秩序となった。他にユピテル神殿の再建やタブラリウムの建設(フォロ・ロマーノ)、ポメリウムの拡張や護民官の権力縮小、プロスクリプティオの発令による民衆派の粛清、元老院議員の定員を300人から600人に倍増するなどの政策も実施した。他に退役兵には土地分配としてイタリアの植民市に送り込み、北イタリアのガリア・キサルピナを属州化、執政官と法務官経験者を属州総督として属州に赴任させる事(プロコンスル・プロプラエトル)も制度化した。この制度は既にマリウス時代から慣習として存在していたが、スッラはこれらを法律として明文化したという点に特徴がある(コルネリウス法)。 スッラの独裁官辞職時期について、旧来紀元前79年とされてきたが、紀元前80年に執政官に就任する前ではないかとする説もある。公職を離れると、別荘で前述のメトロビウスを初めとする娼婦、男婦を妻の目も憚らずに傍において気侭に暮らした。しかし晩年に内臓器官の疾患により蛆が体に住み着く奇病を患って急速に衰弱してしまい、程なく病没した。死後、反対派の貴族らはその遺骸を野に晒すべきとしたが、最終的には遺言に従って荘厳な葬儀が執り行われた。
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