独裁官 I
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 15:55 UTC 版)
「ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス」の記事における「独裁官 I」の解説
紀元前458年、ローマでは依然としてテレンティリウス法案を巡って争いが続いており、キンキナトゥスの息子カエソの裁判での偽証も争点となっていた。更に前年和平を結んだアエクイ族がそれを破ってローマ周辺を荒らし、アルギドゥス山に陣を敷いた。ローマは使節を派遣し賠償を求めたが決裂し、執政官はアエクイ領とアルギドゥス山へ出陣することとなったが、護民官はいつもどおり徴兵拒否を呼びかけていた。 しかし、サビニ人が大挙してローマへ押し寄せたため徴兵は実行され、執政官ナウティウス・ルティルスがサビニ領へ逆侵攻をかけた。もう一人の執政官ミヌキウス・エスクィリヌスはアルギドゥス山へ向かったもののやる気も戦果も乏しく、逆に包囲されてしまった。ナウティウスが呼び戻されたが、事態を重く見た元老院はキンキナトゥスの独裁官選出を決めた。自ら農作業を行っていたキンキナトゥスは使者にトガを纏って拝聴するよう促され、独裁官 (ディクタトル)に指名された。 彼は副官にルキウス・タルクィニウスを指名すると、国事停止の非常事態宣言を行い、兵士たちに杭と兵糧を持ってカンプス・マルティウスへ集結するよう命じた。そして執政官の危機を告げると強行軍でアルギドゥス山に向かい、その夜には到着した。キンキナトゥスは現状を確認し、兵たちに喚声を上げつつ杭を打ち敵を包囲するよう命じると、包囲されているミヌキウスは勇気百倍して内側から反撃した。アエクイ軍は挟撃に慌て、包囲網が完成したため降伏し、指揮官と街一つを差し出す事で命を助けられた。その際、キンキナトゥスは服従の証として三本の槍によって作られた軛の下をくぐるように求めたという。 この勝利によって膨大な戦利品を得たが、キンキナトゥスは苦境を招いた兵たちに分配しない事を告げ、ミヌキウスにもレガトゥスへと降格する事で責任を取らせたが、皆キンキナトゥスに感謝しており素直に従った。ローマの留守を預かる首都長官ファビウス・ウィブラヌスの呼びかけでキンキナトゥスの凱旋式挙行が決定され、9月13日に行われている。その後、彼は独裁官に任命されてから16日目にその職を辞したという。こういった執政官の降格は、軍神マールスの導きから外れたことを詫びるために行われたと考えられている。
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