独占禁止法違反事件
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「トーマス・J・ワトソン」の記事における「独占禁止法違反事件」の解説
本社でワトソンに割り当てられた仕事は、中古キャッシュレジスター市場での競争相手を打ち負かすことだった。その手法は胸を張って合法といえるものではなかった。伝えられるところによると、ワトソンはNCRの資金を使ってNCRとは一見無関係を装った会社 Watson's Cash Register and Second Hand Exchange をマンハッタンで立ち上げた。NCRからの無制限な資金供給を背景として、利益を上げるのが目的ではないため、徐々に市場を独占していった。競争相手が弱って買収できるようになったら、即座に買収した[要出典]。その後フィラデルフィアに移って全米各地で同様の手法で中古市場の独占を図り、NCRは新品の市場で既に確立していた独占に近い状態を中古市場でも作り出すことに成功した。1908年、中古市場事業が通常の営業部門に統合されると、ワトソンは営業副本部長に就任。1910年には営業本部長に昇進し、新製品開発も担当するようになった[要出典]。 この問題のある中古販売ビジネスについて、ワトソンは後にその意味をよく理解していなかったと主張している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実際、与えられた仕事に没頭するあまり、パターソンの深謀を完全には理解できなかったと考えられないこともない。[独自研究?]それでも、これは明らかに独占禁止法違反だった。1912年2月22日、パターソンを含むNCRの管理職30名と共に、ワトソンは独占禁止法違反で起訴された。 公判の6カ月前、後に妻となるジャネット・キトリッジと出会っている。そして公判が終わった2週間後の1913年2月13日に結婚した。裁判では有罪を宣告され、5,000ドルの罰金とマイアミ郡刑務所での1年間の収監を言い渡されている。罰金は判例から予想されていたが、収監は予想外で、ワトソンは控訴した。一方でパターソンはオハイオ州デイトンの1913年の洪水の際に人道援助を行っており、告訴が退けられている。同様にワトソンの控訴は成功し、先の評決は控訴審まで破棄された。しかし政府は控訴審を開く手間をかけないことを選択し、1915年にワトソンは全ての嫌疑について無罪とされることになった。 行き過ぎはあったが、NCRの販売手法は事務機器を販売するに当たっての最も効果的なものであった。例えば、販売特約店網の整備、直販営業部門の整備、セールスマンの歩合制とノルマ制、事務機器会社として世界初の開発部門の整備(マーケティング上有効)などである。当時の風潮として、事務機器を売るならNCRのセールスマンを雇えばよいとする考えが業界に存在していた。従って、裁判係争中のワトソンが後にIBMとなる会社に高待遇で迎えられたのも不思議なことではない。
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