独占禁止法違反及び選手の保留権に関する最高裁判断
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「1922年のメジャーリーグベースボール」の記事における「独占禁止法違反及び選手の保留権に関する最高裁判断」の解説
1914年にフェデラル・リーグとアメリカンリーグ及びナショナル・リーグとの間で起きた選手引き抜きに関するトラブルから、両リーグ間で訴訟問題に発展した。そして翌1915年にランディス判事の裁定で両リーグとフェデラル・リーグとの間の係争は一件落着した。ほぼフェデラル・リーグ側の自壊に近い形ではあったが、フェデラル・リーグのボルチモア・テラピンズのオーナーのネッド・ハンロンはメジャーリーグのオーナー、そして彼らから多額の金額を受けて有利な計らいを受けたフェデラル・リーグのオーナー3名に対して訴訟を起こし、それは独占禁止法に違反しボルチモア・テラピンズが損害を受けたというもので90万ドルの損害賠償を求めるものであった。コロンビア地区連邦裁判所はネッド・ハンロンの訴えを認め、独占禁止法に基づいて賠償金8万ドルを支払いを命じた。この中で重要なポイントであったのは選手の保留権に関してで、ボルチモア・テラピンズ側が保留条項を選手に課すのは不法行為であり、1890年の「シャーマン反トラスト法」(独占禁止法)違反であるとしたもので裁判所はこれを認めたことになった。 そこでメジャーリーグ側がコロンビア地区連邦控訴裁判所に控訴し、今度はメジャーリーグ側の主張が認められて、野球はスポーツであって商業ではなく、独占禁止法の対象外である判断を示した。そこでネッド・ハンロンは連邦最高裁判所に持ち込んだ。そして1922年5月29日にアメリカ連邦最高裁判所は、野球はビジネスであっても「もっぱら州で行われる行事」であり、独占禁止法に抵触する州際通商には当たらず、シャーマン法やクレイトン法の対象外であると裁定した。これでメジャーリーグの独占禁止法免除が確立された。 この野球の適用除外はその後50年以上続くことになった。選手のトレードに関しての紛争はこの後もたびたび起こったが、常にこの「1922年の最高裁判断」が重要な根拠となった。後にヤンキースのマイナー球団のジョージ・トゥールソン選手が訴訟を起こし1953年に最高裁まで争われ、またカージナルスのカート・フラッド選手がトレード拒否から起こした訴訟も1972年に最高裁に持ち込まれ、いずれも「1922年の最高裁判断」をもとに選手側の訴えを却下している。
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