熱河の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:39 UTC 版)
2月23日、万里の長城が河北省との境界を形作る熱河を獲得し、北進する中国軍を抑える為、政府の許可を得た関東軍は遂に熱河作戦を発動した。25日には第6師団が作戦行動を開始し、同じ日に朝陽が占領された。3月4日には承徳も占領、10日には最前線が長城に達し、長城攻撃は10日から始まった。 作戦自体は3月16日頃に終結したものの、その後も関東軍の進撃は長城を越え河北省にまで延び、北平に至る前の5月に中国と停戦することになった。3月24日には国際連盟総会でリットン報告書が採択され、日本は連盟脱退の意を示し、同じ頃の関東軍は熱河に入城していた。しかし、長城一帯で日本軍の侵攻が停止すると、関内に退却していた中国軍は20個師団を集めて反撃を始め、北向きの防御用に造られた壁を南向きの防御に使った事もあり、関東軍は苦戦を強いられるようになった。対して関東軍は、警備に移行しつつあった部隊を再度作戦に呼び戻し、4月10日には、司令部から越境を禁じられていた長城を破り、河北省灤東の中国軍を撃破、以後5月の停戦に至る迄の戦闘は「関内作戦」と呼ばれる。12日には秦皇島を占領したが、昭和天皇の撤退の意向によって、4月19日には前進部隊へ帰投命令が出され、23日には撤収を終えた。 中国軍が再度反攻に出ると、小磯国昭参謀長は攻撃再開の許可を得、5月3日に関内への侵攻を命じた。この「第二次関内作戦」は、満州国境付近の中国軍排除と、華北地帯の中国軍憲降伏を目的としており、7日に侵攻が開始された。15日には、中国軍が撤兵条件を受諾した場合に、関東軍が長城線まで退がる意図を示したが、これに対する返答は無く、20日に密雲・豊潤まで侵攻、21日に通州を占領した。天津特務機関の板垣征四郎少将による工作活動の甲斐もあり、中国軍は5月25日、密雲の第8師団に遂に停戦を求め、延慶・林亭口・寧河より南に撤収する事を条件とした。
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