関内作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 02:50 UTC 版)
灤東作戦で灤河右岸に退いた中国軍は日本軍が長城線に戻ると再び灤東地区に兵を進めた。日本軍が撤退すれば挑戦行動に出る中国側の態度を放置しては、満州と中国の国境紛争が収まらないと判断した小磯参謀長は、上京して昭和天皇と陸軍中央より灤東進出の許可を得た。ここにおいて関東軍は5月3日「関内作戦」を発令し、灤東に進出した中国軍に対して作戦行動を取った。 この時期の北平・天津地方には中国軍約40個師団があったが関内作戦は順調に進められた。第6師団は7日前後から、第8師団は10日夜から行動を開始すると23日夕方には薊運河より懐柔から密雲にかけての線に進んだ。また 5月8日には日本軍軍事司令官の声明として「日本軍の作戦を強いた責任は日本軍の関内不進出を知って侮日態度に出た中国側にある」と発表された。 5月25日、中国側が何応欽を軍使として密雲に派遣し正式に停戦を求めたため、関東軍は戦闘行動を停止し、関内作戦は終了した。
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