熱河省の位置付け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 02:50 UTC 版)
熱河は清朝の夏の別邸地域として歴史上有名であるとともに満州と中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっていた。この地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽協定が締結された当時、その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、あるいは満州へ軍隊、扇動家、プロパガンダ工作員を送り込む場所としても重要であり、またアヘン栽培による収益が当地の価値を高め、その地理上の位置が戦略的・政治的に重要なものとなっていた。 この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署名し、熱河省長に就任していた。湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越える軍を率いていたが、南と西からは張学良の軍事力、さらに万里の長城に迫りつつあった日本軍の軍事力の脅威の狭間にあった。蔣介石は湯玉麟の関心は地盤としての熱河省とアヘンの販路としての東北地域の確保と見ていた。 張学良はこの地から産出され、天津と北京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満州国における工作活動資金としていた。
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