熱河支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:55 UTC 版)
1913年(民国2年)、熱河に進攻したウジムチン部(中国語版)王公の反乱を鎮圧、この功により11月、熱河省の林西鎮守使に就任し、あわせて毅軍前敵総指揮、熱河軍務幇弁を兼ねた。1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、米振標は一等子爵に封じられている。翌1916年(民国5年)の袁世凱死後は段祺瑞の安徽派にまず属し、またバボージャブが反乱を起こすと山東省や林東に派兵し奉天派を助けた。10月初め、防御が手薄だった林西県にバボージャブが侵攻すると、バボージャブの陣地がある北門外高地東営盤に砲撃を加える。1920年(民国9年)の安直戦争時には熱河都統の姜桂題が直隷派との調停に奔走したため、安徽派失脚後も姜とともに地位を保ち、直隷派に転じた。 1921年(民国10年)、姜桂題の下で同省副都統をつとめ、あわせて毅軍左翼翼長兼統領に任命された。姜の引退後、奉天派の汲金純が都統を務めたが、第1次奉直戦争では汲金純に反旗を翻し、灤平で汲軍主力を攻撃、承徳を占領。その後、1922年(民国11年)5月に直隷派の王懐慶が都統に就任するが、実際は米が熱河軍務幇弁として王の職務を代行していた。毅軍内部でも財政庁長兼暫定代理統領の白承頤が11月3日に暗殺されるなど後継者争いが起こったため、1924年(民国13年)7月、王の後任として署理熱河都統に任命される。9月の第2次奉直戦争では王懐慶率いる討逆軍第2軍副司令となった。しかし、奉天派と馮玉祥の前に直隷派が敗北したため、同年12月、米は都統を罷免されている。
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