熱河から河南へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:55 UTC 版)
その後、米振標はかつて同じく毅軍の趙倜が支配していた河南省に向かい、馮玉祥率いる国民軍に転じている。1925年(民国14年)には国民軍第2軍(長:胡景翼、のち岳維峻)隷下の毅軍総司令に任命された。米は毅軍4個旅、1万2千人を率いて、河南軍務幇弁を兼任する。また、騎兵隊総司令・張殿如(中国語版)を冀北に派遣、高碑店まで勢力を伸ばす。また、同年2月、善後会議(中国語版)会員。 1926年(民国15年)1月、呉佩孚の討賊聯軍第1軍(軍長:靳雲鶚)、第2路軍(軍長:寇英傑)、劉鎮華の陝甘軍が河南省への侵攻を開始。2月頭、国民軍第2軍が呉を討てとの通電を発すると、米はこれに呼応している。しかし、2月17日、第11師第16旅長兼豫東鎮守使・郭振才が無抵抗のまま靳雲鶚に帰徳を明け渡すと、米も26日に靳を開封へ迎え入れた。28日、河南全省保安司令に就任した靳雲鶚が鄭州へと進軍を開始すると、岳維峻を討てとの通電を発する。米は開封警備司令に任ぜられ、また国民軍第2軍の撤退から取り残された第3補充旅(旅長:高桂滋(中国語版))を毅軍に編入し混成第5旅としている。 翌1927年(民国16年)2月8日、安国軍(中国語版)大元帥張作霖は河南省進出を宣言、韓麟春・張学良率いる第3、4方面軍が迫りつつあった。12日、靳雲鶚は直隷派残兵を集めて河南保衛軍を設置すると毅軍も吸収合併され、河南臨時保安司令に就任した。しかしすぐに寇英傑、郭振才らと相次いで安国軍への帰順を表明、14日に開封を直魯聯軍に明け渡した。18日、米は高等顧問(空席)兼第18軍軍長兼毅軍総司令に任命されたが、5月より国民革命軍に転じた馮玉祥の第2方面軍と張発奎率いる第1集団軍第4方面軍第1縦隊の北伐で駆逐される。河南保衛軍は国民革命軍に転じた馮玉祥の第2集団軍に帰順したが、程なくして靳雲鶚とともに旧毅軍の部隊長らも粛清された。これにより、清末以来の毅軍は完全に崩壊、消滅したことになる。 晩年は北平、山海関に寓居した。また、私財で故郷の米家溝や米家𡸴に小学校を建てたり、村公路の石橋を修理するなど慈善活動を行った。1928年(民国17年)、死去。享年69。
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