無一文へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:51 UTC 版)
「レンブラント・ファン・レイン」の記事における「無一文へ」の解説
しかしこの頃になると、レンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事はめっきり減ったが浪費はそのまま、方々からの借金で賄っていたが返済の当てもなく、邸宅の年賦支払いも滞っていた。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた。ところが、1652年に英蘭戦争が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始めた。1656年にレンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった。 そして7月20日、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された。販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった。競売は1656年9月に始まり、翌年までに買い叩かれた。1660年12月18日に、11,218ギルダーで売れた 邸宅を彼は去って貧民街である ヨルダーン地区 ローゼンフラフトの街に住み着いた。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルド(英語版)は厳しく、彼を画家として扱わないように定めた。これに対処するため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を開業してレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした。 このような境遇においても、レンブラントが抱える探求心が損なわれることはなく、却って純粋に「画家とは」や「芸術家とは」という主題に向き合った。そして画家としての評価も依然高く、最盛期ほどではないとしても絵画作成の依頼もあった。アムステルダム市からは新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたが、これは依頼を受けていたホーファールト・フリンクが急死したためである。1661年に『クラウディウス・キウィリスの謀議』(en) <ギャラリー>を完成させている。ただしなぜかこの絵は数箇月後には外され、レンブラントへ返却された。現在この絵は、部分しか伝わっていない。他にも集団肖像画『織物商組合の幹部たち』(1662年)、シチリア貴族のルッフォ(ルフォー)から依頼を受け描いた『アレクサンダー大王』(1663年<ギャラリー>)『ホメロス』(1663年<ギャラリー>)などを描いた。 しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作っており、ついには、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で 亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会(英語版)に葬られた。
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