火事のあらまし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 09:27 UTC 版)
6月18日午前1時7分ごろ、第1病棟に入院中の患者が用便のためにトイレに行ったところ、天井から火が出ているのを発見した。その患者はすぐに大声で火事を当直の看護師2人に通報した。看護師はバケツに水を汲み初期消火を試みたが、全く鎮火する気配が無く、非常ベルで、別の棟に詰めていた当直医に火事を知らせた。非常ベルで火災を知った当直医や別棟に当直していた看護師、近所の住人が駆けつけ、入院患者の救出に当たった。しかし精神病院という特殊性のため、病棟の窓・出入口・非常口とも施錠がなされ、鍵が無いと開けることが出来ず、患者の避難は困難を極めた。また、非常ベルが鳴ると同時に電気系統が被熱により停電した。 消防署が火災を知ったのは1時24分で、望楼からの発見であった。病院から通報があったのはその2分後である。消防隊が駆けつけたときには木造の病棟3棟はすでに手をつけられない状態で、4棟の病棟を全焼させ2時ごろ鎮火した。患者18人が焼死した。 被害が大きくなった原因として、燃えやすい老朽化した木造建築であったこと、きちんと設置されていた消火器・屋内消火栓が初期消火で全く使用されなかったこと、消防への通報が遅れたこと、病院の性質から窓や出入口・非常口まで施錠されており、中から容易に開けられないようになっていたことが挙げられる。事実、死者の多くが開けられることがなかった非常口の前で発見されている。
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火事のあらまし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:55 UTC 版)
「聖母の園養老院火災」の記事における「火事のあらまし」の解説
1955年2月17日午前4時34分ごろ、老女の捨てた懐炉の灰の不始末(漏電説、およびタバコの火の不始末説もあり)により養老院1階「ペテロの間」から出火。消防と警察およそ200人が消火にあたったが、木造2階建て(延べおよそ800坪)と修道院聖堂(およそ70坪)、肥料小屋1棟を全焼し、午前6時15分頃に鎮火した。この火事で、収容中の老女143名(うち4名は出火当日は不在)のうち職員2人を含む計99人が焼死、8人が負傷する大惨事となった。これは戦後の建物火災では1972年千日デパートビル火災、1973年大洋デパート火災に次ぐ犠牲者数であり、非商業施設としては最多である。 この建物は開業当初より燃えやすく老朽化した木造建築であることが問題となっていたが、経営状態から来る資金不足のため改築や新築など抜本的な対策が出来ない状態のまま、火災の前年にやっと消火器を何本か設置する程度の対応しか取ることができなかったという。被害が大きくなった原因として、そのような建物の状況や火災対策の不備に加え、付近の水利が悪かったこと(そのため、消防ポンプ車はおよそ1キロメートル先の国立横浜病院の貯水池から消火用水を取らざるを得なかった)、収容者が就寝中でしかも足腰の立たない高齢者がほとんどであり、自力での避難が困難だったことなどがあげられる。
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