港口の封鎖作戦と要塞攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 06:11 UTC 版)
「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の記事における「港口の封鎖作戦と要塞攻撃」の解説
劣勢なセルベラ艦隊では陸上要塞からの催促もあって出撃が何度か検討されたが、天候などの理由で脱出の時期を得ることがなかいうちに、ついにアメリカ海軍のサンプソン少将の艦隊はサンチャゴ・デ・キューバ港を封鎖した。湾口を中心に近接封鎖線を敷くアメリカ艦隊は、5月31日、6月6日、12日、16日と港口要塞へ艦砲射撃を送った。 サンプソン少将は故障気味の給炭船メリマック号が333フィートの長さを持っており、港口幅350フィートの閉塞に適していると着目した。旗艦ニューヨークに在籍していた38歳のホブソン工兵中尉が指揮官となり6月3日払暁にメリマック号による港口の閉塞作戦が実施された。閉塞船の突入に、当初セルベラ艦隊では攻撃を行い撃沈の戦果を報告したが、後に湾港を塞ぐ目的の自沈と判明した。メリマック号は港口に対して直角に自沈する計画であったが、スペイン側の攻撃により角度が得られず、閉塞は失敗した。 6月22日、アメリカ陸軍の第5軍団(16,000人のうち9割が常備軍、義勇軍は歩兵2個連隊、騎兵1連隊、第1合衆国義勇騎兵隊(通称、ラフ・ライダーズ))がサンチャゴの東側に上陸し陸側からの圧迫をはじめ、海軍もグアンタナモ港を占領して港の封鎖を更に厳しくした。 セルベラ艦隊には、キューバ総督ラモン・ブランコ・イ・エレーナス中将やサンチャゴ州総督アンセニオ・リナーレス・ポンボ中将からの出港の催促が繰り返された。陸上から要塞の攻撃を企画するアメリカ陸軍は7月1日に米軍はエル・カネーとサン・ホアンへ攻撃を行い苦戦ながらも両地点を確保し、柴はこのうちサン・ホアンの攻防戦を観戦した。スペイン側ではサンチャゴ司令官のリナーレス中将を含む将官2人、佐官10人が戦死し、将校48人、兵士533人が死傷した。米軍は苦戦しつつも攻撃地点を確保したが、エル・カネー方面で900人、サン・ホワン方面で450人、その他で300人の計1700人ほどの死傷者を出した。アメリカ陸軍が両地を確保したが、犠牲が大きく前進を止めた。この戦いにはスペイン艦隊からも1000人の陸戦隊をエル・カネーに派遣して応戦しており、指揮官のブスタメンテ参謀長(ブスタメンテ魚雷の考案者)が重傷を負い、後に戦傷が原因で没している。陸軍のリナーレス中将もこの戦いで両足を撃たれ後送中に戦死した。 7月3日の夜には孤立していると見られたサンチャゴ・デ・キューバにマンサニリョーに駐屯していたスペイン歩騎砲混成兵団(フェデリコ・エスカリヨ大佐指揮、約4,00人)が6月22日からの強行軍で険しい山道を踏破して援軍に駆けつけた。
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