港口切断反対運動
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1961年(昭和36年)9月15日に起工式を挙げた富山新港は、当初1967年(昭和42年)中の完成を見込んでいたが、実際には1966年(昭和41年)になっても東防波堤と西防波堤の一部が完成したに過ぎなかった。工事が思うように進捗しない富山県としては、港口切断を可及的速やかに行いたい意向であったが、地元青年団を中心とした反対運動は根強く、1964年(昭和39年)2月には堀岡通勤者同盟、同年7月には海老江通勤者同盟が組織され、1965年(昭和40年)1月11日には富山県労働組合協議会、新湊地区労働者組合協議会及び富山地方鉄道労働組合が中心となって富山新港港口切断対策富山県共闘会議を結成するなど、運動の組織化が進んでいった。1965年(昭和40年)8月1日には反対運動のシンボルである「切断反対の監視塔」が完成している。 こうして地下道の建設や富山地方鉄道射水線の地下鉄化を求める富山新港港口切断対策富山県共闘会議及び地元振興会と富山県との交渉は何ら進展せず平行線を辿っていたものの、吉田実富山県知事が「交渉相手は新湊市と市議会」であると断言したことで事態は急変し、1966年(昭和41年)3月17日の新湊市議会全員協議会において質疑や討論を省略した自由民主党系議員による強行採決が行われ、富山県側の提案する形による港口切断の着工が決定した。これによってまず同年4月5日に富山地方鉄道射水線堀岡駅 - 越ノ潟駅間が廃止され、同区間における代行バスの運行が開始された。また、同日より富山地方鉄道射水線越ノ潟駅 - 新湊駅間は加越能鉄道に譲受され、同社新湊港線となった。富山県道1号魚津氷見線の堀切橋も同日より撤去作業が開始され、以降は仮橋による通行が行われた。
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