渡辺温(わたなべ・おん)
1902年(明35)、北海道上磯郡生まれ。渡辺啓助は次兄にあたる。松竹の映画女優だった及川道子と恋人だったことがある。「幻影城」にイラストを描いている画家である渡辺東は姪。別名ワタナベオン、渡辺裕、霧島クララ。
1924年(大13)、慶応大学高等部在学中、プラトン社の映画筋書募集に谷崎潤一郎の推薦で「影」が一等入選し、1925年(大14)、「女性」「苦楽」に掲載。
小山内薫に師事し、1925年(大14)、渡辺裕名義で「少女」を発表。
1927年(昭2)、「新青年」の編集に携わる。
1927年(昭2)、「新青年」に「嘘」「可哀想な姉」を発表。「可哀想な姉」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第三号(1927年版)」に収録される。
ポーに心酔しており、 1928年(昭3)、江戸川乱歩名義でポーの短編を渡辺啓助とともに翻訳し、「世界大衆文学全集」に掲載。
1930年(昭5)、「新青年」に掲載するはずの谷崎潤一郎の原稿を依頼に行った帰り、西宮で交通事故にあって死去。しかし、タクシーに同乗していた長谷川修二は無事だった。
渡辺温
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 05:53 UTC 版)
1902年8月26日 - 1930年2月10日)は、日本の推理作家・幻想小説家。本名は (ゆたか)[1]。
(わたなべ おん、注釈
- ^ 谷崎によれば、小山内は、「影」は内容的に映画化が難しいとして当選させることに難色を示していたが、「影」を作品として高く評価した谷崎が、強硬に押し切って一等入選させたという[3]。
- ^ 谷崎によれば、渡辺から『新青年』のために依頼されていた随筆がなかなか書けず、2月7日になって「イマヒトツキオマチヲコフ」という電報を送ったところ、渡辺は原稿催促のため、夙川に下宿していた楢原とともに、9日昼に谷崎邸を直接訪れた。谷崎が翌10日の夕方までに原稿を書いて渡すことを約束したため、渡辺は楢原の下宿に泊まることにして、いったん引き上げた[7]。
- ^ 『新青年』の渡辺温追悼特集に掲載されたため、遺作と誤解されることがあるが(たとえば江戸川乱歩『探偵小説四十年』は「遺作」とする)、実際は初期の作品である。
- ^ 1929年 (昭和4年) に改造社から刊行された『世界大衆文学全集 第30巻 ポー、ホフマン集』からポーに関連する部分を取り出して文庫化したもので、付録として江戸川乱歩の『渡辺温』(江戸川乱歩「探偵小説三十年」より抜粋したもの)、谷崎潤一郎の『春寒』、渡辺東の『温と啓介と鴉』(書き下ろし) および浜田雄介による解説が付けられている。浜田の解説によると『ポー、ホフマン集』は江戸川乱歩の訳として出版されたものの、ポーの部分の実際の翻訳は渡辺兄弟が共訳したものである。また、同解説によれば、渡辺温が担当したのは「黄金虫」「モルグ街の殺人」「マリイ・ロオジエ事件の謎」「壜の中に見出された手記」「長方形の箱」「赤き死の仮面」「物言う心臓」「ヰリアム・ヰルソン」の8編であること、残りの7編 (「窃まれた手紙」「メヱルストロオム」「早過ぎた埋葬」「陥穽と振子」「黒猫譚」「跛蛙」「アツシヤア館の崩壊」) が啓助担当であったことが、啓助の直話として残されている。なお、『ポー、ホフマン全集』はベストセラーになったものの、のちに全集から削除されている。
出典
固有名詞の分類
- 渡邊温のページへのリンク