渡道〜独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 00:25 UTC 版)
古谷家の次男として誕生。生家は地方屈指の油問屋で、佐竹氏のご用達として苗字帯刀を許可される格式の高い家であり、幼少時は何不自由なく育った。1853年(嘉永6年)に黒船来航、そして日本は明治維新を迎えた。以来、要吉は繁栄著しい蝦夷地の噂を幼い頃から幾度となく耳にして育った 1867年(慶応3年)、要吉は商用で陸奥国弘前(後の青森県弘前市)へ渡った。幼少時より興味をひいてやまない蝦夷が、津軽海峡の向こうに微かに目にした彼は、何のあてもなく単身で蝦夷に渡った。蝦夷で自分の力を試したいとの志を抱いたとも、次男という気安さから軽い気持ちで海を渡ったともいう。古谷家では、一向に家に戻らない要吉を心配したものの、彼が蝦夷に渡って自分の力を試しているとを知るや、事態を静観することにした。 当時の松前の城下町である福島郡(後の上磯郡知内町および松前郡福島町)は、大勢の出稼ぎ労働者がおり、活気と魅力に満ちており、働き口には事欠かなかった。中でもニシン漁が盛んであったため、要吉は回船問屋で修行をすることにし、最初は松前の回船問屋である田中武左衛門、次いで豪商の吉田三郎右衛門のもとで働いた。 回船問屋での修行の日々の中で、やがて蝦夷は北海道となり、時勢が大きく好転した。これを機に要吉は、回船問屋での厳しい仕事の合間を縫って経済書を読み、北海道の産業や経済の情勢を学び、独立のときに備えた。この勉強のためには、わずかな余暇をも惜しんだ。そして北海道の首都・札幌市の前身である石狩国札幌郡を中心に開発が進み、札幌に近い小樽が貿易の玄関口となると見て、小樽での事業を目指した。 5年間の奉公生活で資金と知識を貯めた要吉は、1872年(明治5年)4月に小樽へ移住し、大十中村という問屋の奉公に勤めた。ここでは人より先に起床し、人より後に就寝し、人の嫌がる仕事を率先して引き受け、陰日向なく働いた。 その働きぶりを小樽の信香町(のぶかちょう)の回船問屋である藤山重蔵に見込まれ、彼のもとで働き始めた。要吉の要領の良さと真面目な性格は店主に好かれ、手代として重宝がられた。 藤山重蔵は体が丈夫でない上に跡継ぎの子供もいなかったことから、要吉を養子とした。1878年(明治11年)に重蔵が死去し、要吉が家督を継いだ。1881年(明治14年)には小樽の繁華街が火災に襲われ、藤山の店も灰となったが、それに怯むことなく再建に勤しんだ。 なお重蔵の実弟の兵蔵が、信香で大きな財力と権勢を誇っていた山田吉兵衛(後の小樽区長)に見込まれて養子となり、後に豪商となった。藤山の回船問屋業も、山田吉兵衛の委託を受けて始まったものであり、大きな経済力を持つ山田家が親戚関係であることは、藤山にとって大きな支えとなった。
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