混ぜ焼きの発祥について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:41 UTC 版)
「お好み焼き」の記事における「混ぜ焼きの発祥について」の解説
呉市の関西風お好み焼き店「ぼてじゅ」の創業者である宅見義喜によれば、お好み焼きのルーツはピザであり、昭和初期に軍艦の乗組員がヨーロッパから呉に伝えたという。これを海軍工廠に徴用された大阪の料理職人が大阪に伝え、戦後の復興期に里帰りして関西風お好み焼きの元になったと主張している。 「柔らかいもんじゃ焼きを屋台で販売するために粉の分量を増やしたのがどんどん焼きの始まりである」とする説がある が、そもそも現在のもんじゃ焼きが誕生したのは昭和30年代のことであり、戦前の文字焼きは蜜の入った具なしの甘い生地を焼いて食べる子供のおやつであった。またどんどん焼きは一銭洋食と同じ「乗せ焼き」であり、後のもんじゃ焼きやお好み焼きのように生地に具材を混ぜ込む調理法は挽肉を用いる一例を除き記録には残っていない。池波正太郎は昭和初期を回想したエッセイの中で、今のお好み焼のごとく何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼きあげるというような雑駁なものではなかったと語り、数あるどんどん焼きの中で唯一「牛てん」というメニューだけがネギとひき肉を生地に混ぜてから焼いていたと証言している。 三宅正弘は、戦前のお好み焼き屋において、一人前ずつの分量を座敷に運んで客に焼かせるという提供方法から必然的に合理的で管理がしやすい混ぜ焼きとなり、これが「お好み焼き」という言葉とともに大阪に伝わったのではないかと考察している。 現存する最古のお好み焼き店は、昭和13年創業の「染太郎」(浅草)である。染太郎では戦前から続く古風なメニューを多く残しており、キャベツではなく白ネギを用いたお好み焼きや、どんどん焼き形式の乗せ焼き、あんこ巻きなどの甘味焼きも提供されている。東京には染太郎以外にも「松浪」や「まりや」など、黎明期の面影を残すお好み焼き屋がいくつか残存している。 一方、大阪屈指の老舗として知られる「はつせ」(千日前)は全席完全個室で、風俗上の取り締まりを受けたという戦前のお好み焼き屋の姿を偲ばせる作りとなっている。近年はカウンター式で店員が焼き、マヨネーズまでかけた状態で提供されることが多くなった大阪だが、この店ではお好み焼きが東京から伝わった当時の様式を今もなお維持している。 これら老舗に共通するのは「客が自分で焼く」という点であり、店側は鉄板と材料を提供するのみで、特に要望のない限り店員が客席に顔を出すことはない。また焼き方や味付けは文字通り「お好み」であるが、基本的には具材をすべて混ぜ込み、よくかき混ぜてから焼くことを推奨している。
※この「混ぜ焼きの発祥について」の解説は、「お好み焼き」の解説の一部です。
「混ぜ焼きの発祥について」を含む「お好み焼き」の記事については、「お好み焼き」の概要を参照ください。
- 混ぜ焼きの発祥についてのページへのリンク