淀殿に近侍とは? わかりやすく解説

淀殿に近侍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:53 UTC 版)

大野治長」の記事における「淀殿に近侍」の解説

治長が、確かな史料登場するのは、天正19年1591年11月秀吉三河国吉良狩猟随兵した頃からである。 文禄元年1592年)、『松浦古事記によれば文禄の役の際の肥前名護屋城陣場配置に「大野修理亮」の名があり、在陣していた。この時、秀吉小田原の陣の例に倣って淀殿松の丸殿などの側室連れていたことは興味深い点であり、まさにこの夏に淀殿は再び懐妊して翌年に拾を産んでいる。 文禄3年1594年)の伏見城普請分担当時1万石の知行慶長3年1598年)、秀吉死に際して遺物金子十五慶長4年1599年)、豊臣秀頼伺候して、詰衆二番之組の筆頭として側近となった。 ところが、同年9月7日重陽の賀のために大坂城登城し徳川家康に対して五奉行1人である増田長盛家康暗殺計画事件があると密告。すでに金沢帰国していた前田利家首謀者で、浅野長政息子幸長の室が利家の娘)・土方雄久・治長が語らって彼らの手城内家康暗殺する企てがあるとした。家康身辺警備厳重にして祝賀乗り切ると、大坂城西の丸入って天守閣造営して、自らが秀頼に並ぶ存在であることを誇示し謀議者の摘発乗り出して10月2日、治長はの罪を問われ流罪とされて下総国結城秀康のもとに預けられ、雄久も同罪として常陸国水戸佐竹義宣のもとに預けられた。 慶長5年1600年7月24日家康は雄久と治長に引見して罪を赦した。関ヶ原の役では東軍与して参戦して本戦では先鋒である福島正則隊に属した。『関原軍記大成によれば宇喜多隊の鉄砲頭・香七郎右衛門打ち取る武功挙げたという。戦後家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康書簡をもって大坂城豊臣家への使者務めた後、江戸には戻らずそのまま大坂残った

※この「淀殿に近侍」の解説は、「大野治長」の解説の一部です。
「淀殿に近侍」を含む「大野治長」の記事については、「大野治長」の概要を参照ください。

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