淀殿に近侍
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治長が、確かな史料に登場するのは、天正19年(1591年)11月、秀吉の三河国吉良狩猟に随兵した頃からである。 文禄元年(1592年)、『松浦古事記』によれば文禄の役の際の肥前名護屋城の陣場の配置に「大野修理亮」の名があり、在陣していた。この時、秀吉は小田原の陣の例に倣って、淀殿や松の丸殿などの側室を連れていたことは興味深い点であり、まさにこの夏に淀殿は再び懐妊して、翌年に拾を産んでいる。 文禄3年(1594年)の伏見城普請を分担。当時、1万石の知行。 慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金子十五枚。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼に伺候して、詰衆二番之組の筆頭として側近となった。 ところが、同年9月7日に重陽の賀のために大坂城へ登城した徳川家康に対して、五奉行の1人である増田長盛が家康暗殺計画事件があると密告。すでに金沢に帰国していた前田利家が首謀者で、浅野長政(息子・幸長の室が利家の娘)・土方雄久・治長が語らって彼らの手で城内で家康を暗殺する企てがあるとした。家康は身辺の警備を厳重にして祝賀を乗り切ると、大坂城西の丸に入って、天守閣を造営して、自らが秀頼に並ぶ存在であることを誇示し、謀議者の摘発に乗り出して、10月2日、治長はの罪を問われて流罪とされて下総国の結城秀康のもとに預けられ、雄久も同罪として常陸国水戸の佐竹義宣のもとに預けられた。 慶長5年(1600年)7月24日、家康は雄久と治長に引見して罪を赦した。関ヶ原の役では東軍に与して参戦して、本戦では先鋒である福島正則隊に属した。『関原軍記大成』によれば、宇喜多隊の鉄砲頭・香地七郎右衛門を打ち取る武功を挙げたという。戦後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって大坂城の豊臣家への使者を務めた後、江戸には戻らずそのまま大坂に残った。
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