淀殿との密通の噂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:53 UTC 版)
江戸時代初期より、治長は淀殿と密通していたと噂があり、幾つかの書物に記されている。 「 一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候、(後略)、 」 —慶長四年十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状 似たような噂の記述は『多聞院日記』にもあり、あながち虚言とも言い難いが、噂話に尾ひれが付いたような記述がある書物も少なくなく、姜沆による『看羊録』では、秀吉の遺命によって家康が淀殿を娶ろうとしたが、治長の子を宿していた淀殿が拒否したとまで書いている。江戸時代の『明良洪範』では、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子と記しているが、同様に淀殿は歌舞伎役者の名古屋山三郎という美男を寵愛して不義を働いていたとも書いており、桑田忠親はこれらの風説は「悪口を書けば書くほど歓迎された江戸時代」の劇作者によるものに過ぎず、「人口に膾炙した」と書いている。
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