淀殿との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 12:01 UTC 版)
高台院は秀吉の正室であったが、子どもを儲けることがなかったため一時秀吉に辛く当たられていたことがあり、また秀吉の側室である淀殿とは対立関係にあったという説がある。ただし、近年の田端泰子や跡部信らの研究では、両者はむしろ協調・連携した関係にあったのではないかと指摘されている。秀吉の死後、高台院と淀殿の双方から積極的に連携関係が結ばれていき、高台院は亡き夫の仏事に専念し、淀殿は秀頼の後見人になり、後家の役割が分割されていた。 慶長13年3月3日、天然痘にかかった豊臣秀頼の治療を行った曲直瀬道三に容態について問い合わせをしている。淀殿が生んだ秀頼の病気快復を心底から望んでいた真情が伝わってくる内容である。 関ヶ原の戦いでも淀殿との対立関係から徳川家康率いる東軍のために動いたとするのが通説であった。実際、甥の小早川秀秋が戦闘中に西軍を裏切り東軍に付いている。しかし、近年の研究では淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いたことが確認されている。また、逆に石田三成らと親しく、関ヶ原の合戦時にも西軍寄りの姿勢を取っていた可能性を指摘する白川亨らの研究もある。その説の論拠として白川が挙げるのが次の事柄である。 北政所周辺に西軍関係者が多い三成の娘(辰姫)が養女になっている 側近の東殿は大谷吉継の母である 小西行長の母ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)は(バテレン追放令が出されるまで)北政所の侍女であった。 西軍寄りと見られる行動を取っている側近の孝蔵主が大津城開城の交渉にあたっている 甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている 関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる(『言経卿記』)。(この時、裸足だったと『梵舜日記』(『舜旧記』)に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる) 東軍諸将との関係が薄い側近に東軍関係者が全くいない 『梵舜日記』に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録が無い。 以上により諸説があり、今のところ東軍側・西軍側いずれとも確定していない。
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