海の正倉院とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 海の正倉院の意味・解説 

うみ‐の‐しょうそういん〔‐シヤウサウヰン〕【海の正倉院】

読み方:うみのしょうそういん

古代文化財豊富なころから》「沖ノ島[一]別称


海の正倉院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 08:50 UTC 版)

沖ノ島」の記事における「海の正倉院」の解説

旧社務所跡地での発掘調査出土した土器石器から、縄文時代前期には漁民らが上陸しミチニホンアシカ)猟の漁業基地として使用していたことが確認された。出土した土器などの特徴から、北部九州瀬戸内海山口広範囲から、漁民たちが訪れていた事が分かっている。第二次大戦中には、旧社務所から北西にのびる軍用道路かたわらから細形銅矛出土しており、弥生時代在地祭祀用いられたものとみられる沖ノ島国家的な祭祀始まったのは出土遺物年代編年から古墳時代前期4世紀後半頃と推測される391年倭国高句麗へと出兵した際、北部九州前線となった時期相当する祭祀終了9世紀末頃とみられ、894年寛平6年)に遣唐使廃止されたことや神道神社形式確立したこと、仏教による鎮護国家比重増えたことなどとされる第二次世界大戦後宗像大社復興期成会(発起人初代会長出光佐三)により1954年昭和29年)- 1971年昭和46年)にかけて三次にわたる発掘調査が行われ、沖津宮社殿周辺巨石寄り添う22古代祭祀跡から約8万点祭祀遺物出土そのほかに縄文時代弥生時代遺物出土)した。これらのうち第一次第二次調査出土品1962年昭和37年)に国宝指定第三次調査出土品1978年昭和53年)に重要文化財指定された。2003年平成15年)には上述国宝と重要文化財統合、さらに同年2008年平成20年)に未指定物件追加指定され関連遺物全て国宝指定されている。しかし学術調査されたのは祭祀遺構全体の3割に過ぎず多く手付かずの状態で残っている。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称される

※この「海の正倉院」の解説は、「沖ノ島」の解説の一部です。
「海の正倉院」を含む「沖ノ島」の記事については、「沖ノ島」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「海の正倉院」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「海の正倉院」の関連用語

海の正倉院のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



海の正倉院のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの沖ノ島 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS