泉小次郎親衡館とは? わかりやすく解説

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泉小次郎親衡館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/25 14:32 UTC 版)

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泉小次郎親衡館
神奈川県
土塁空堀跡(泉中央公園南辺)
別名 中和田城、天王山城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 不明(泉氏?)
築城年 不明(13世紀?)
主な改修者 なし
主な城主 泉親衡?
廃城年 不明
遺構 土塁空堀
指定文化財 未指定
登録文化財 横浜市登録地域文化財史跡
「泉小次郎伝承地」
位置 北緯35度24分45.8秒 東経139度29分23.3秒 / 北緯35.412722度 東経139.489806度 / 35.412722; 139.489806座標: 北緯35度24分45.8秒 東経139度29分23.3秒 / 北緯35.412722度 東経139.489806度 / 35.412722; 139.489806
地図
泉小次郎
親衡館
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泉小次郎親衡館(いずみこじろうちかひらやかた)、または中和田城(なかわだじょう)は、神奈川県横浜市泉区和泉中央南泉中央公園にあった日本の城1213年建暦3年)に起きた北条義時打倒未遂事件(泉親衡の乱)の首謀者・泉親衡の居館とする伝承がある。「泉小次郎伝承地」の名称で横浜市登録地域史跡[1]に登録されている。

概要

小次郎馬洗いの池。

相模鉄道いずみ野線いずみ中央駅の南東、横浜市泉区内を流れる和泉川左岸に面した台地に築かれている[2]

城跡は南北400メートル、東西200メートルを測り、曲輪と見られる平坦地は現在「泉中央公園」となっている。公園南端には東西に走る高さ1メートルほどの土塁空堀が残り、公園東端の発掘調査では、埋没しているV字に掘られた空堀が見つかっている[3]

信濃国を本拠地とする御家人泉親衡の関東での居館と伝わり、周辺には親衡が京都祇園社牛頭天王勧請したとされる須賀神社や、親衡の道場だったとされる長福寺など、親衡に関する伝承地が複数ある[4]。また泉中央公園内の池は「泉小次郎馬洗の池」と呼ばれ、古くから雨乞いに使われていたという[5]

「泉小次郎伝承地」として、1988年(昭和63年)に横浜市地域史跡に登録された。

ただし馬洗の池から出土した板碑には、建武4年(1337年)銘や延文6年(1361年)銘のものがあることから、泉親衡の乱の時代(1213年)とは100年以上離れた南北朝時代の城郭である可能性もある[4]

脚注

  1. ^ 「横浜市文化財一覧」横浜市公式HP
  2. ^ 平井 1980 pp.306
  3. ^ 埋蔵文化財センター 2017 pp.5
  4. ^ a b 「長福寺と伝泉小次郎館跡」横浜市泉区公式HP
  5. ^ 平井 1980 pp.307

参考文献

  • 泉区小史編集委員会 1996 「長福寺と伝泉小次郎館跡」『いずみ いまむかし』pp.72-74 横浜市泉区

関連項目




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