泉官衙遺跡
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泉官衙遺跡
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所在地 | ![]() |
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座標 | 北緯37度38分49秒 東経141度00分58秒 / 北緯37.64694度 東経141.01611度 |
歴史 | |
完成 | 7世紀 - 10世紀 AD |
追加情報 | |
発掘期間 | 1994年・2000年 |
泉官衙遺跡(いずみかんがいせき)は、福島県南相馬市原町区泉にある官衙遺跡。阿武隈山地から東流する新田川が形成した河岸段丘上に立地する7世紀末から10世紀後半の官衙遺跡である。発掘調査により政庁域、正倉域、館が確認され、その所在位置と内容から、泉官衙遺跡を陸奥国行方郡家とする意見が強い[1]。2010年(平成22年)2月22日に国の史跡に指定された[2]。
概要
泉官衙遺跡は、阿武隈山地から太平洋に向い東流する新田川と、その北岸に展開する丘陵の間に形成された狭小な河岸段丘上に立地する古代の官衙遺跡である。遺跡の所在する福島県南相馬市は、古代の行政区域では陸奥国行方郡に属し、遺跡の北1.5キロメートルの位置には、古代における日本最大級の製鉄遺跡群である金沢地区製鉄遺跡がある[1]。
遺跡の所在する南相馬市原町区泉には、古くから建物の礎石が残り、古瓦・炭化米も採集されたことから、その散布範囲は平安時代の寺院跡とみなされてきた。1994年(平成6年)原町市(現・南相馬市)教育委員会の圃場整備事業に伴う発掘調査により、遺跡の範囲は東西1キロメートルにわたることが判明し、これをうけて市は遺跡の主要部分の保存を決め、2000年(平成12年)から遺跡の内容確認のための発掘調査を実施したところ、政庁域、正倉域、館と考えられる遺構を確認した[1]。
検出した建物群は、大きくわけて3時期の変遷が確認されている。Ⅰ期は7世紀末から8世紀初頭であり、建物群の主軸は真北から東に振れた方位をとる。政庁域は遺跡中央の寺家前地区にあり、桁行4間、梁行2間の掘立柱建物の正殿と、それを「ロ」字形に囲む掘立柱塀で連結された前殿、後殿、東西脇殿の四棟の掘立柱建物からなる。その北西には正倉を構成する総柱式掘立柱建物群があるが、区画施設は確認されていない[1]。
Ⅱ期は、8世紀初頭から後半であり、建物群の主軸方位はほぼ真北に変わる。政庁域の位置と規模、建物配置はほぼⅠ期を踏襲するものの、正殿は四面廂付建物となり、前庭部分は玉石敷になる。正倉域は政庁域の北西約240メートルに移り、礎石総柱建物群が素掘の溝と掘立柱塀により区画される。また政庁域から北西約520メートルの町池地区には館と推定される掘立柱建物群があり、周囲は南面に八脚門を構えた掘立柱塀により区画される[1]。
Ⅲ期は、8世紀末から10世紀前半であり、政庁域、正倉域ともに規模を拡大するが、政庁については前殿が失われ、後殿と東・西脇殿は独立した建物となる。また政庁域の南方には、新田川旧河道から延びる運河が開削され、その周囲に掘立柱建物群からなる施設が造営されるが、Ⅱ期に成立した館は姿を消す[1]。
政庁域・正倉域・館での出土遺物については土師器、須恵器、円面硯、木簡などが出土し、官衙的な様相を示す。一方、遺跡東端の舘前地区においては軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦など瓦類の出土量が著しく多いことに特色がある。その中には、熨斗瓦・隅切瓦、鬼板、塼などが含まれることから、同地区に塼積基壇をもつ瓦葺建物の寺院建築が存在した可能性も指摘されている[1]。
泉官衙遺跡は、東西に長く南北に狭小な河岸段丘面という特徴的な地形に、官衙の主たる構成要素である政庁域、正倉域、館等が確認され、それぞれの構造と時期変遷が明瞭に把握できるという点で貴重である。その存続時期は7世紀末から10世紀前半であり、その所在位置・規模などからこれは陸奥国行方郡衙(郡家)と推定され、古代国家の地方支配体制のあり方を具体的に示すものとして極めて重要である。そのため、国の史跡となった[1]。
出典
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