河内源氏の棟梁に関してとは? わかりやすく解説

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河内源氏の棟梁に関して

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 09:42 UTC 版)

源為義」の記事における「河内源氏の棟梁に関して」の解説

義忠死後家督継承為義義朝頼朝継承されたとするのは、頼朝征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く前後あたりからのことであり、為義在世中は棟梁として存在していたかは定かではない一部義家後継指名をしていたとする史料があるが、後世の作で当時史料からは確認できない。また為義同じく長兄源義信や、義忠次男源義高義家三男源義国らも当時河内源氏勢力一部継承しており、義忠後継自任していたことがわかっている。また、実際に河内源氏および清和源氏それぞれの系統が独自の道を歩み為義時点では各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある。 為義同時期に勢力のあった河内源氏一族 源義国従五位下加賀介義家三男新田氏足利氏の祖。義重・義康の父 源義信従四位左兵衛佐義親長男 源経国義忠長男 源義高従四位左兵衛佐。義忠次男 源義光従五位下刑部少輔義家の三弟 源義時左兵衛尉義家の六男。河内源氏本拠地石川荘を相続 また、為義棟梁であったとしても、その後継者が義朝であったという事実も確認できる史料は無い。むしろ、保延5年1139年)の体仁親王(後の近衛天皇)の立太子で弟の義賢東宮帯刀任じられていたにも関わらず、兄である義朝未だ無位無官のまま東国下向しているのは、為義義朝廃嫡して義賢後継者とした結果考えられる。ところが、義賢殺人事件への協力によって解官されたためにやむなく後継者から外さざるを得なくなった一方で廃嫡された義朝東国勢力伸ばして勢力とも結びついて独自の勢力築き始めた。これに危機感覚えた為義義賢東国下向させて秩父党児玉党協力得て義朝対抗しようとした。 その結果義朝父子大蔵合戦義賢を、保元の乱為義新たな後継者となった頼賢を滅ぼして実力でその地位奪い取ったのが実態であったとみられる。しかし、義朝棟梁になった経緯とその地位平治の乱までのわずか3年であったことが、その後治承の乱において義朝後継者として鎌倉拠点置いた頼朝ではなく義賢後継者である義仲や今だ健在であった為義実子である行家らを棟梁とみなす余地残した治承の乱過程において、諸源氏からなる武者統合失敗した義仲・行家に対して東国にて独自の勢力確立専念した頼朝最終的に分裂していた河内源氏清和源氏軍事力をもって排除もしくは自己の統制下におくことで、名実ともに源氏棟梁、「嫡流」の地位確立させることになった考えられている。

※この「河内源氏の棟梁に関して」の解説は、「源為義」の解説の一部です。
「河内源氏の棟梁に関して」を含む「源為義」の記事については、「源為義」の概要を参照ください。

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