河内源氏の内訌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 16:15 UTC 版)
一旦は義家の嫡子となった義親が追討の対象とされたことで、河内源氏一族には動揺が生じ、遂には深刻な内紛が起こった。 義家の遺志により河内源氏の家督は四男の義忠とされ、義親の長男の為義がその養子とされた。天元2年(1109年)2月、義忠が殺害される事件が起こる。容疑は義綱にかけられ、憤慨した義綱は一族とともに近江国甲賀に立て籠もり、為義がこの追討にあたり、合戦の末に義綱の子たちは殺され、義綱は降伏して佐渡国へ流され、後に自害している。 義綱の容疑は冤罪とされ、真相は不明だが『尊卑分脈』などでは義家の弟の義光を真犯人としている。この同族の内訌によって、河内源氏の力は大きく削がれた。
※この「河内源氏の内訌」の解説は、「源義親の乱」の解説の一部です。
「河内源氏の内訌」を含む「源義親の乱」の記事については、「源義親の乱」の概要を参照ください。
- 河内源氏の内訌のページへのリンク