河内源氏の御曹司とは? わかりやすく解説

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河内源氏の御曹司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)

源頼義」の記事における「河内源氏の御曹司」の解説

頼信嫡男として河内国石川郡壷井荘(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれ弓の達人として若い頃から武勇誉れ高く今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇高く評価したといわれ、関白藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという(『中外抄』)。 長元元年1028年6月、かつて父・頼信家人であった平忠常関東において反乱平忠常の乱長元の乱)を起こすと、長元3年1030年)に朝廷より命じられ父とともに忠常討伐出陣する。それまで国府軍や官軍大い打ち破ってきた忠常であったが、武勇優れた頼信・頼義親子が追討軍として派遣された事を知ると大い驚き瞬く間朝威服したと謂われる。頼義はこの反乱平定に際して抜群の勇決と才気を示す活躍をしたとされ、乱後小一条院敦明親王判官代として勤仕し、狩猟愛好したと伝わる小一条院側近として重用されている。その一方官位昇進の面では父・頼信蔵人官吏)として推挙され次弟・頼清に遅れをとり、頼義が相模守として初め受領任じられるのは、頼清が安芸守として受領任じられ5年後長元9年1036年)の事である。

※この「河内源氏の御曹司」の解説は、「源頼義」の解説の一部です。
「河内源氏の御曹司」を含む「源頼義」の記事については、「源頼義」の概要を参照ください。

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