江戸時代・後期から幕末(板倉家の統治)
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「福島藩」の記事における「江戸時代・後期から幕末(板倉家の統治)」の解説
1702年(元禄15年)には、徳川将軍家と密接な関係にある板倉家が3万石で封じられた。藩内には内藤魯一らを初めとする優れた勤皇家が居たにも関わらず、これらを冷遇し、1868年(明治元年)、最後の藩主12代板倉勝達は奥羽列藩同盟に与したため、三河重原に移封されてしまう。しかし、戊辰戦争後、失脚していた勤皇派を復職がなされ、内藤らは藩の名誉回復に奔走。明治4年、廃藩置県に至った。
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江戸時代後期から幕末
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上杉重定は「乱舞(能)に励むべし」と領内にお触れを出し、藩士や領民にも芸術を奨励した。仕掛けを凝らした豪華な能舞台を作るなど、万事が奢侈に流れた。 秋月家より養子に入った上杉鷹山(治憲)が藩の殖産興業を行って財政を立て直した。天明7年(1787年)には善政を幕府から表彰される。一旦売却した京都の上杉家藩邸を買戻し、高度な工芸品などの技術を収集する拠点とし、米沢織に応用している。 次代の上杉治広も蘭学医術など学問を奨励するなど、文化7年(1810年)に「政治向き格別に行届き、領内治め方よろし」などとして表彰される。続く上杉斉定も天保7年(1836年)に表彰されている。 幕末の藩主上杉斉憲の代にも幕府から表彰され、18万7千石に加増された。斉憲は京都で西国雄藩とも交わり、文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたる。八月十八日の政変では池田茂政(備前藩主)・池田慶徳(鳥取藩主)・浅野長勲(芸州藩主)らと共に長州藩を擁護した。戊辰戦争では、藩が改易される窮地を救った会津藩主保科正之への恩義もあることから奥羽越列藩同盟に加わった。新潟を掌握し、一時は優位な局面もあったが、連盟内では早期に新政府軍に降伏している。列藩同盟の実質的な盟主だったこともあり、屋代4万石を減封された。
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