水原球場時代(2000–2007)
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「現代ユニコーンズ」の記事における「水原球場時代(2000–2007)」の解説
水原球場にホームを移ってからチームは8年間、韓国シリーズ優勝3回、Aクラス6回と全盛期を謳歌した。しかし、好調を維持するチーム成績とは裏腹に、上記の理由で実質上の本拠地である水原の地元人気を得られず、常に観客動員数は少なかった。2006年は公式戦2位の成績にもかかわらず、観客動員数は12万6385人(1試合平均2006人)で、リーグ全体の1試合平均(6032人)の約.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄3の動員数しかなく、リーグ最下位であった。 2000年は鄭珉台、林仙東(イム・ソンドン)、金守経(キム・スギョン)の先発3本柱が、それぞれ18勝で最多勝のタイトルを分け合うなど、韓国プロ野球史上最高の91勝の圧倒的な成績をあげ、韓国シリーズも優勝。 その後、2年間はポストシーズンには出場したものの、韓国シリーズ進出は失敗。元巨人(2001年–2002年)の鄭珉台が2003年に復帰、最多勝投手や韓国シリーズMVPのタイトルを獲得する活躍のおかげで3度目の優勝。しかし、鄭珉台は2004年シーズンから不振に陥った。 2005年から2006年までオリックスでプレーしたクリフ・ブランボーは2003年から2004年まで在籍し、2004年には打率 .342 で首位打者のタイトルを獲得し、2003、2004年の韓国シリーズ連覇にも大きく貢献した。 2005年は沈正洙、朴鎮万らの主力の移籍、投手陣の不振により7位に低迷。2006年は若手の起用で投打ともに建て直しに成功し、三星ライオンズと優勝争いを繰り広げレギュラーシーズン2位でプレーオフ進出した。しかし、プレイオフでハンファ・イーグルスに敗れた。金始眞監督が就任した2007年は6位に終わった。 この時期はチーム成績は球団史上最高の好調をみせたものの、球団経営が苦しくなってきて、2003年オフには朴鍾皓(パク・ジョンホ)、2004年オフには朴鎮萬(パク・チンマン)、沈正洙(シム・ジョンス)など主力選手がフリーエージェントで、資金が豊富なライバル球団の三星ライオンズへ移籍して弱体化が進んだ。その上、2006年シーズン後、監督の金在博さえも古巣のLGツインズの新監督に就任してチームを去り、同監督を支えたコーチたちも新監督に昇格した投手コーチの金始眞を除くほとんどがLGツインズに移ってしまった。 この弱体化の原因は、球団の筆頭株主であったハイニックス半導体(旧現代電子)が2001年現代グループの経営不振により切り離されてしまい資金力が低下してしまったことが発端である。2003年には野球団の経営に愛情を見せてきた鄭夢憲現代グループ会長も自殺してしまった。それに追い討ちをかけるように、2005年資金を提供してきた現代-起亜自動車グループとハイニックス半導体が民事訴訟を起こしてしまったことなどで、極度の資金難に陥ったことがあげられる。また観客動員数が少ないため球団自体の収益も少なかった。
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