民衆詩ハインテーニ研究
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「ジャン・ポーラン」の記事における「民衆詩ハインテーニ研究」の解説
1879年にマダガスカルに着任したイエズス会のマルザック神父が著したマダガスカル語の文法書を読み、直接マルザック神父に会う機会を得たポーランは、マダガスカル人にフランス語を教えながら、彼らからマダガスカル語の話し言葉、口承文学を学んだ。この経験が彼に植民地化の過程におけるマダガスカル語およびフランス語教育のあり方を問い直す契機を与え、また、後の民衆詩ハインテーニの研究、ひいては言語研究、とりわけ文学言語の研究に道を拓くことになる。 1909年4月に詩人のヴァンサン・ミュゼリ(フランス語版)とともに「日常生活・学術研究・社会活動における知識人の実験的・抽象的・実用的研究のための評論誌」『ル・スペクタトゥール』を創刊。1910年にマダガスカル語教員免許を取得し、国立東洋言語文化学院のロシア語教授で1908年に学長に就任したポール・ボワイエ(フランス語版)により同校の教員に任命され、同年12月に帰国。すでにマダガスカル・アカデミーの通信員としてハインテーニに関する研究成果を発表していたが、翌11年にはパリ言語学協会(フランス語版)の会員やアジア協会の会員に選出され、アジア協会の機関誌『ジュルナル・アジアティック(フランス語版)』にも寄稿した。 1911年6月6日、ポーランド生まれの医学生サラ(サロメア)・プルサックと結婚し、パリ14区に居を構えた。二人の間には二子(ピエール、フレデリック)がある。サラとは1933年7月に離婚し、12月にジェルメーヌ・ジャンヌ・ドータンと結婚した。ジェルメーヌは病気がちで、まもなくアルツハイマー病のため外出も困難になった。 ソルボンヌ大学にハインテーニに関する博士論文を提出するために、「ことわざの意味論 ― マダガスカルのことわざの変種に関する考察」、「マダガスカルのことわざ的な表現の言語学的分類の試み」、「マダガスカル語における抽象的観念と常套句 ― その形成の法則」、「嘘と偽善の観念 ― 心理学的批評の試み」といった題目を検討していたが、最終的には1912年に「メリナ族のハインテーニ ― マダガスカルの民衆詩」により博士号を取得。『ジュルナル・アジアティック』に掲載された後、翌13年に東洋学専門のグトネル出版社から刊行された。これは彼が収集した800以上のハインテーニから163首を選んで主題ごとに分類し、フランス語訳と注釈を付したものである。ポーランはさらに推敲を重ね、1939年にはガリマール出版社から『ハインテーニ』改訂版を刊行した。
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