民主党・民進党時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:10 UTC 版)
2000年9月に帰国。 2000年、衆議院東京21区の補欠選挙に民主党公認で立候補するも落選。3年間の浪人生活を経る。2003年、第43回衆議院議員総選挙に東京21区から民主党公認で立候補し、初当選を果たした。当選後は菅直人が主宰する国のかたち研究会に所属した。同年、慶應義塾大学大学院法学研究科で非常勤講師(国家安全保障政策担当)。 2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では小選挙区で敗れるも重複立候補していた比例東京ブロックで復活当選となり、再選される。同年9月12日、民主党代表の岡田克也が、総選挙大敗の責任をとり辞任を表明。岡田の辞任に伴う代表選挙(9月17日実施)では前原誠司の推薦人に名を連ねた。新代表となった前原の下で「次の内閣」のネクスト防衛庁長官に抜擢されるとともに、安全保障委員会の野党側筆頭理事に就任、党内の安全保障政策の取りまとめにあたる。その後、小沢一郎の「次の内閣」でもネクスト防衛庁長官に留任した。 2006年、中央大学大学院公共政策研究科で客員教授を務める。 2009年、第45回衆議院議員総選挙に東京21区から民主党公認で立候補し、前回の選挙で敗れた自民党の小川友一を破り3選。同年9月18日、鳩山由紀夫内閣の防衛大臣政務官に就任。2010年6月8日、菅直人内閣において防衛大臣政務官に再任。同年9月、菅直人第1次改造内閣の発足に伴い、政務官を退任した後には、党の外交安全保障調査会事務局長を務めた。 2011年9月、野田内閣発足に伴い、内閣総理大臣補佐官(外交および安全保障担当)に就任。2012年10月、野田第3次改造内閣で防衛副大臣に任命された。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、民主党に逆風が吹き荒れる中、東京21区で4選。なおこの総選挙において、東京都の小選挙区で議席を獲得したのは民主党では長妻昭・長島の2人に留まった。選挙後、民主党国民運動委員長に就任。 2013年9月、民主党副幹事長に就任。同年9月13日、民主党東京都連会長松原仁の下で都連幹事長に就任。 2014年2月、吉良州司、北神圭朗、鷲尾英一郎らと共に「国軸の会」を結成、会長に就任する。「国軸」とは、平城京から吉野を経て熊野に至る日本列島の中心を縦断するラインのことを称する。奈良県吉野で合宿をした際に、「国に政策の軸を立てる」との意味を込めて命名されたという。同年3月5日、所属していた野田グループ・前原グループを退会していたことがわかった。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では、小選挙区で敗れるも重複立候補していた比例東京ブロックで復活当選し、5選。この選挙では、小選挙区で当選した自民党の小田原潔との票差が約1,600票差であったこともあり、NHKが開票速報において小選挙区で長島が当選確実と誤って報じた。 2015年1月に行われた民主党代表選挙では、元幹事長・細野豪志の推薦人に名を連ねた。 2016年9月に行われた民進党代表選挙に自ら立候補することを検討したが、必要な20人の推薦人が確保できず、立候補を断念した。その後、立候補を表明した前原誠司の支援に回った。
※この「民主党・民進党時代」の解説は、「長島昭久」の解説の一部です。
「民主党・民進党時代」を含む「長島昭久」の記事については、「長島昭久」の概要を参照ください。
- 民主党・民進党時代のページへのリンク