毛皮の国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 22:32 UTC 版)
「ベルビュー (ネブラスカ州)」の記事における「毛皮の国」の解説
ベルビュー市となった開拓地は、1822年にセントルイスを拠点とするミズーリ毛皮会社の社長、ジョシュア・ピルチャーが毛皮貿易基地を建設したときに始まった。この基地は後の1828年に毛皮交易商ルシヤン・フォントネルズが購入してアメリカ毛皮会社のものとしてからフォントネルズポストと呼ばれた。この基地は土着のオマハ族、オトー族、ミズーリ族およびポーニー族インディアンとの交易の中心になった。この地域のミズーリ川を見下ろす崖からの眺めが美しかったので、初期のフランス系カナダ人罠猟師が「ベルビュー」(フランス語で美しい眺め)と名付けた。 毛皮交易が下火になりかけた1832年、フォントネルはその基地をアメリカ合衆国政府ミズーリ川インディアン代理局(ベルビュー代理局とも呼ばれた)に売却した。バプテスト教会の宣教師モーゼスとエリザのメリル夫妻が1833年にここに到着し、インディアン代理人が基地に一時滞在させた。 1835年、メリル夫妻はオトー族と共に8マイル (13 km) 西に移動し、オトー伝道所あるいはモーゼス・メリル伝道所とよばれたものを設立した。フォントネルの基地は1839年から1842年頃に放棄された。 セントルイスを本拠地にする毛皮交易業者でルイジアナ・クレオールのピーター・サーピィ大佐がベルビューの川向い、後にアイオワ州となった地に交易基地を建設した。そこではオレゴン、後にカリフォルニアのゴールドラッシュに向うヨーロッパ人やアメリカ人の開拓者遠征隊に物資を供給した。1846年頃、サーピィはベルビューとアイオワのセントメアリーズの間に渡し舟を就航させた。1850年代までに渡し舟の1つが蒸気船に代わった。 サーピィは著名な実業家としてベルビューの地域社会の中で活動した。彼は町の区画割を行い、組織化に貢献した。さらにディケーターの町の区画割りも行った。ネブラスカ議会はサーピィが地域社会の組織化に貢献したことで、この地域をサーピィ郡と名付けた。 ベルビューはミズーリ川沿いに位置して、プラット川流域にも近かったので、成長を続けた。その社会は東部からの工業製品や西部からの毛皮を運ぶ中継点になった。1840年代から1850年代にかけてベルビューは繁栄した。 毛皮交易が下火になってくると、ベルビューは1850年代の10年間で混合経済に移行した。ネブラスカ準州東部が1854年に開拓者に開放され、ベルビューでは建設ブームが起こった。第一長老派教会、銀行、ホテルおよび数多い個人宅が新しく建設された。しかしこの建設ブームは短命だった。町の拡大によってベルビューはネブラスカ準州の州都に選ばれるべきという考え方が生まれた。ベルビューは準州最古の都市であり、広く知られた開拓地だったので、住人は楽観していた。新しい準州知事フランシス・バートは既にベルビューに住いを移していた。しかしその到着から間もなく死んだ。その後継者T・B・カミングは準州都としてミズーリ川の北に新興間もないオマハを選んだ。
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