構造と維持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 01:54 UTC 版)
小さなシャレー様式の建物は建築家アロイス・デガノ(de:Alois Degano)の手によって、1933年にサンルームと小さなガレージが増加築され、このときから山荘は2棟の建物を持つようになる。1936年には母屋を横に大きく広く、ガレージも長く大きく余裕を持たせた改築がされ、この時から山荘は「ベルクホーフ」(山の宮殿、山上御殿)と呼ばれるようになった。 ベルクホーフには大きなテラスが造られ、大きく色とりどりのリゾート風のキャンバスのようなアンブレラが特徴的であった。入り口にはマヨリカ風のポットに植えられた好奇心をそそるようなサボテンの展示があり、居間の壁は高価なスイス松によるパネル張りであった。ヒトラーの大きな書斎には、電話の交換台もあった。図書室には歴史、絵画、建築、音楽などの本が並んでいた。設計にはヒトラーも一部関与していた。 大ホールには巨大な赤い大理石の炉棚とともに、ゲルマン風の高価な家具と巨大な地球儀(いわゆるヒトラーの地球儀)があり、ポーランドなどから略奪した絵画が飾られていた(戦後にこれらは元の所有者に返還された)。一つの壁の裏には映画の投影用ブースがあった(映画の多くは当時ドイツ国内では禁止されていたハリウッド映画であった)。1枚ガラスの大きな窓は、山を覆う圧倒されるような雪景色を見るために、壁の中に下げることができた。家は多くのハウスキーパー、庭職人、料理人、他の家事の手伝い人により小さなリゾートホテルのように維持されていた。 ヒトラーは当初、異母姉であるアンゲラ・ヒトラーに管理を任せていた。しかしアンゲラはヒトラーの愛人となったエーファ・ブラウンと反りが合わず、エーファをベルクホーフに滞在させないことがしばしばあった。1936年8月にアンゲラが再婚してベルクホーフを去ったため、エーファがベルクホーフの陰の女主人となった。 「この場所は私のもの(This place is mine)」とヒトラーは1938年出版の英国雑誌「Homes & Gardens」の著者の言葉を引用した。「私が稼いだお金で建てた(I built it with money that I earned.)」。
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