桶狭間の合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:35 UTC 版)
正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に悦び謡いをうたわせた(『信長公記』)。 13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。または、信長は「あの武者は疲れた兵」と敵軍が見えていて、今川方も中嶋砦からの信長の進軍を見ていて(『三河物語』)、奇襲ではなく雨も止んでからの正面から進軍しての戦闘だった(『信長公記』)(詳細は「#合戦場と奇襲の問題」)。今川軍の総勢は2万5000人であったとされるが、当地へは今川方は駿府を発して徐々に土豪らが加わる遠征で、その中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれた。加えて今川方は兵を分散させていたこともあり義元を守る実兵力は少なく、双方の戦力に各段の差は無く、まず前方に展開していた前衛軍を打ち破り、その混乱の中、本陣に攻め込む乱戦となり義元は300人の旗本に守られ逃げた。 『信長公記』によれば、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。義元は一番槍をつけた服部一忠に反撃し膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、討ち取られた。『水野勝成覚書』の伝聞によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという。 総大将である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。 江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人余りだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという。江戸時代に六角氏について偽文が様々書かれ、この『桶狭間合戦討死者書上』も偽情報だとの研究者の見解がある。
※この「桶狭間の合戦」の解説は、「桶狭間の戦い」の解説の一部です。
「桶狭間の合戦」を含む「桶狭間の戦い」の記事については、「桶狭間の戦い」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から桶狭間の合戦を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 桶狭間の合戦のページへのリンク