用語の出典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 04:10 UTC 版)
太田牛一の『信長公記』などの信頼できる記録には清洲同盟の記述が見られない。 『三河後風土記』によると、桶狭間の合戦後に、岡崎城に入城した家康の許に、織田家からの使者として、たびたび、水野信元、久松定俊の両人が訪問し、言葉を尽くして、和順を促したという、しかしながら、家康はなかなか応じず、討死した義元の仇も報じない愚将の氏真に従えば武田・北条にその所領を奪われるは必定。大身の信長が、小身の家康へ和順を申し出るは、過分の至りであるとして、家康は納得し、永禄四年九月、和睦整い、双方誓紙を取り替わしたるという。
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