桐壺更衣
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 05:46 UTC 版)
桐壺更衣(きりつぼのこうい)は、紫式部の物語『源氏物語』の登場人物で主人公光源氏の母のことだが、原文に「桐壺更衣」及びこの女性を「更衣」と言う記載はない。
「生前、女御と呼ぶこともなかった事が残念に思われ」という一文により、後世の読者が「女御ではないなら更衣だろう」と思い「桐壺更衣」と呼ばれるようになった。
桐壺更衣の実家は、子の光源氏の邸宅となるが、この邸宅は藤原道長の邸宅の一つだった。『 二条院は光源氏の生家であり、少青年期をここで過ごし、六条院が出来るまでは(「少女」巻)、この二条院が源氏の住居でありました[1]。
一般的に言えば、二条通りに邸宅が面していれば、二条院とか二条第とか呼ばれることになります。たとえば村上天皇母后の藤原隠子の二条院(二条の北、堀川の東)・一条天皇の中宮定子が入った小二条第(二条の北、東の洞院の西)・藤原定家の二条京極家(二条の北、京極の西)・二条富小路の内裏(二条の南、富小路の西)等々、王朝時代の貴族の豪壮な邸宅が二条通りの南北沿いに、何棟も存在していました(『二中暦』『拾芥抄』等)。
光源氏の二条院は、「賢木」の巻の斎宮母娘(六条御息所とのちの秋好中宮)が伊勢へ下向する条に、一行が内裏を出て、「二条より洞院(とうゐん)の大路を折れ給ふほど、二条の院の前なれば」とあるので、二条通りの南、東の洞院通りの東にあったことになります[2]。
実はここには入道大相国兼家が造り、道長を経て、頼通の弟の教通に伝領された二条殿があったとされています。それで教通を二条関白とも言うのです(『拾芥抄』)。当然ながら紫式部存生の時代には、道長の屋敷の一つでもあったわけです』。(源氏物語の謎)
境遇・立場
入内前に亡くなった按察大納言と北の方との一人娘で、桐壺帝の後宮で寵愛された。後宮では後ろ盾が無いこともあり、局として清涼殿からもっとも遠く不便な淑景舎(桐壺)を与えられたことから桐壺更衣と読者に呼ばれる。早くに父親を亡くし、父の遺言を受けた母北の方の尽力により、一族再興の期待を背負って入内した。出家した兄が一人いる(「賢 木」)。
特別身分高い出自ではなかったが、桐壺帝の寵愛を一身に受けていたため、他の女御、更衣たちから疎まれたうえ、彼女らの後ろ盾である重鎮の貴族からは楊貴妃にあてこすられて、有形無形の嫌がらせを受けた。その心労から病気がちになり、帝の第二皇子(光源氏)を出産するも、源氏が3歳の夏に病状が急変、里下り直後にそのまま死去。女御にもできなかったことを後悔した帝により、従三位を追贈された。
人物
平安時代に娘を入内させるのは「家の繁栄」のためであり、入内前に後ろ見を亡くしている桐壺更衣が入内する意味はない事だが、父親を亡くしてから入内している人物は、藤壺登子、藤原穏子がいる。
彼女に似た藤壺は最初、母に似た源氏の憧れの人として、後には罪の共有者として重い役割を果たし、その藤壺に似た面差しの少女若紫は源氏の妻として彼の人生に大きく絡んでゆく。彼女たちのつながりは古歌にちなんで「紫の縁(ゆかり)」と呼ばれるが、彼女たちの通称もまた桐藤などいずれも紫にちなんでいる。
「桐壺」の巻が『長恨歌』をオマージュして書かれたことから、桐壺更衣のモデルはヒロインの楊貴妃であると考える説や、また藤原沢子(仁明天皇女御、光孝天皇生母)や村上天皇と密通(後に入内)した藤原登子や女御の藤原芳子モデルとする説などがある。
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