桂林・柳州の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:56 UTC 版)
詳細は「桂柳会戦」を参照 この頃、中華民国軍の協力を受けて桂林・柳州に進出したアメリカ軍航空隊の航空機により、ヒ72船団などの日本軍輸送船団に被害が出るようになっていた。 日本軍の当初計画では、衡陽攻略後には速やかに桂林や柳州へと南進する予定であった。しかし、衡陽での苦戦を見た日本の大本営は、以後の作戦の前に第11軍の再編と休養を行う方針とし、補充兵10万人を送ることにした。8月下旬には現地の統括司令部として第6方面軍(司令官:岡村寧次大将)を新設し、第11軍などを指揮下に入れて安定した作戦遂行を図った。第11軍は自動車道の開通で補給態勢がようやく整ってきていたので、大本営の方針を無視して進撃を続けたが、アメリカ軍によりサイパン島が陥落し作戦目的は失われたと判断した大本営とフィリピンでの戦いに備えて桂林・柳州の米軍飛行場を攻略したいと言い出した作戦立案者の服部作戦課長らが停止か継続かで対立、結局服部の意見が通り10月に興安県へ到達したところで発令された停止命令が解除された。 第6方面軍は11月3日の明治節を期して進撃を再開することにし、桂州と柳州を順に攻略するという計画を立てた。ところが、進撃開始後、第11軍は独断で桂州と柳州に同時侵攻し、方面軍の指導を無視して11月10日までに容易に双方を占領した。日本軍は柳州付近での中国軍との決戦を想定していたが、白崇禧将軍率いる中国軍主力は戦闘を回避して後退したのであった。 日本軍は無事に桂林・柳州の連合軍基地を占領したかに見えたが、このような事態になることを恐れたアメリカ軍は、日本軍の侵攻に先立つ10月に航空基地を爆破した上で撤収していた。なおこの際に、連合国東南アジア軍副最高司令官のジョセフ・スティルウェルは、フランクリン・D・ルーズベルト大統領により罷免され帰国させられている。後任にはアルバート・ウェデマイヤーが就任した。 もっとも、第131師団長の闞維雍(zh)は撤退を拒んで桂林市内に立てこもり戦死し、桂林防衛司令部参謀長陳済恒(zh)や第31軍参謀長呂旃蒙(zh)らも退却中に戦死するなど、中国軍も無傷では済まなかった。日本軍は補給線が伸びきり自動車用の燃料が不足したために、これ以上の追撃は不可能だった。この頃になると日本軍の食糧不足は深刻となり、周辺住民からの強制徴発無しでは作戦が不可能になっていた。小銃などの武器弾薬も不足し補充兵だけが送られてくる状況だった。中国軍も日本軍も補給は現地調達頼みだったので周辺住民には大変な負担がかかった。 闞維雍第131師団長 呂旃蒙第31軍参謀長 第6方面軍の命令で第23軍の第22師団が南寧を再占領し、12月10日には第37師団が綏禄にて仏印方面から北上してきた第21師団の一宮支隊と連絡に成功した。ここにおいて「大陸打通」は一応成功したことになる。これにより第22師団と第37師団が仏印方面へ進出し印度支那駐屯軍へ編入された。さらに、第3師団と第13師団は、一時貴州省に進出し、独山まで到達した。
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