東京教育大学時代(1956-1960)
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「安田矩明」の記事における「東京教育大学時代(1956-1960)」の解説
1956年(昭和31年)、好きな運動ができ体育の勉強ができるという理由で東京教育大学体育学部(現・筑波大学体育専門学群)に進学する。陸上競技部に入部し、実業団出身の安田は同期の中でも抜きん出た存在であり、それまで1学年1人しかいなかった女子部員が安田の世代から複数人所属するようになった。入学初年度の関東インカレは3m90で3位に入賞、この年の自己ベストは3m92であった。東京教育大学(以下、教育大)入学後より器械体操を棒高跳の技術向上のために再開した。 1957年(昭和32年)、2年生になると5月の関東インカレは3m90で2位、7月の日本インカレは4m05で優勝し、10月の日本選手権も4m10で制した。夏にはドイツ遠征に出かけ、ドイツ人に勧められるままにダンスを踊ったら翌日の大会で自己新を出して優勝するという経験をしている。フランス・パリで開かれた1957年世界大学競技大会(英語版)にも出場、4m15で4位入賞した。同年は最終的に4m20まで記録を伸ばしている。 1958年(昭和33年)は5月のアジア競技大会(東京)で4m20を跳んで金メダルを獲得、同じく5月の関東インカレを4m05で、7月の日本インカレを4m25で優勝した。日本インカレの成績は、当時の日本歴代4位タイ記録であった。8月の日本選手権では2位であった。この年は日本学生陸上競技連合が30周年記念に日本学生対米国対抗国際競技会を日本各地で開催しており、安田は京都大会で4m27(当時、日本の戦後最高記録)、福岡大会で4m30と順調に記録を伸ばし、9月14日に最終戦となる小田原大会(小田原市城山陸上競技場)に臨んだ。安田はアメリカのロバート・チャールズと激戦を繰り広げ、4m36の日本新記録を樹立した。従来の日本記録は大江季雄の4m35で、更新されたのは1cmだけだったが、21年ぶりの日本記録更新に会場の観衆は興奮し、日本記録を目指していた安田は喜びのあまり眠れなかった。安田と同記録ながら、試技数で優勝を手にしたチャールズは、安田に自分が使っていたグラスファイバー製のポールを贈っている。この時安田が大会で使っていたのはスチール製であり、日本人で初めてグラスファイバーポールを手にしたものと考えられる。10月の日本選手権では日本記録に届かなかったが4m20で2連勝した。 1959年(昭和34年)、4年生になると安田は競技部の主将に就任し、一致団結を期して丸刈りにしたので、男子部員は全員丸刈りにせざるを得なくなったという。5月の関東インカレは4m10で3位と振るわなかったが、7月の日本インカレでは前年と同じ4m25を跳んで3連覇し、日本インカレの対校成績は男女とも4位であった。9月にはイタリア・トリノで開かれた第1回ユニバーシアードに出場し、4m35で初代金メダリストに輝いている。この大会には有力選手が多数出場しており、安田は入賞すら予想されていなかったというが、闘志を秘めて平静を装ったのが他の選手を刺激せずに済み、勝利につながったと述懐している。教育大卒業前の安田の体格は体重73 kg、胸囲104 cm、上腕囲34 cmに成長していた。
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