東京教育大学時代とは? わかりやすく解説

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東京教育大学時代(1956-1960)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 21:37 UTC 版)

安田矩明」の記事における「東京教育大学時代(1956-1960)」の解説

1956年昭和31年)、好きな運動ができ体育勉強ができるという理由東京教育大学体育学部(現・筑波大学体育専門学群)に進学する陸上競技部入部し実業団出身安田同期中でも抜きん出た存在であり、それまで1学年1人かいなかった女子部員安田世代から複数人所属するようになった入学初年度関東インカレは3m90で3位入賞この年自己ベストは3m92であった東京教育大学(以下、教育大)入学後より器械体操棒高跳技術上のために再開した1957年昭和32年)、2年生になると5月関東インカレは3m90で2位7月日本インカレは4m05で優勝し10月日本選手権も4m10で制した。夏にはドイツ遠征に出かけ、ドイツ人勧められるままにダンス踊った翌日大会で自己新を出して優勝するという経験をしている。フランス・パリ開かれた1957年世界大学競技大会英語版)にも出場、4m15で4位入賞した同年最終的に4m20まで記録伸ばしている。 1958年昭和33年)は5月アジア競技大会東京)で4m20を跳んで金メダル獲得同じく5月関東インカレを4m05で、7月日本インカレを4m25で優勝した日本インカレ成績は、当時日本歴代4位タイ記録であった8月日本選手権では2位であったこの年日本学生陸上競技連合30周年記念に日本学対米国対抗国際競技会日本各地開催しており、安田京都大会で4m27(当時日本の戦後最高記録)、福岡大会で4m30と順調に記録伸ばし9月14日最終戦となる小田原大会小田原市城山陸上競技場)に臨んだ安田アメリカのロバート・チャールズと激戦繰り広げ、4m36の日本新記録を樹立した。従来日本記録大江季雄の4m35で、更新されたのは1cmけだったが、21年ぶりの日本記録更新会場観衆興奮し日本記録目指していた安田喜びのあまり眠れなかった。安田と同記録ながら、試技数で優勝を手にしたチャールズは、安田自分使っていたグラスファイバー製のポール贈っている。この時安田が大会で使っていたのはスチール製であり、日本人初めグラスファイバーポールを手にしたもの考えられる10月日本選手権では日本記録に届かなかったが4m20で2連勝した1959年昭和34年)、4年生になると安田競技部の主将就任し一致団結期して丸刈りにしたので、男子部員全員丸刈りにせざるを得なくなったという。5月関東インカレは4m10で3位と振るわなかったが、7月日本インカレでは前年と同じ4m25を跳んで3連覇し、日本インカレ対校成績男女とも4位であった9月にはイタリア・トリノで開かれた第1回ユニバーシアード出場し、4m35で初代金メダリスト輝いている。この大会には有力選手多数出場しており、安田入賞すら予想されていなかったというが、闘志秘めて平静装ったのが他の選手刺激せずに済み勝利つながった述懐している。教育大卒業前安田体格体重73 kg胸囲104 cm上腕34 cm成長していた。

※この「東京教育大学時代(1956-1960)」の解説は、「安田矩明」の解説の一部です。
「東京教育大学時代(1956-1960)」を含む「安田矩明」の記事については、「安田矩明」の概要を参照ください。

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