東京教育大改組移転関係史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:05 UTC 版)
「家永三郎」の記事における「東京教育大改組移転関係史」の解説
1963年 キャンパスの敷地の狭隘さを理由として三輪知雄学長により提案された東京教育大学の筑波移転計画を巡っては、教育学部、理学部、農学部、体育学部が賛成する一方で、家永をはじめとする文学部は人文科学の研究・教育にとっては史料が豊富にある東京に残ることが必須であると主張し強く反対。 1967年 長期にわたる議論を経ても合意に至らず、東京教育大学評議会は筑波における土地取得を開始。 1968年 筑波移転に反対する文学部自治会の所属学生が校舎と大学本部のある本館を占拠するなど紛争が激化。自治会学生たちは教授陣はすべて権力側であるとみなし、移転反対派の家永に対しても団交などで激しい罵声を浴びせた。 1969年 宮島竜興学長事務取扱(学長代行)が機動隊の入構を許可し学生を排除、家永はこれをクーデターであると批判。 1969年9月 文学部が授業を再開しようとしたところ学長は学生のキャンパス入構を拒否、学生による学長に対する提訴により執行停止。 1970年 同大学評議会、文学部の教授、助教授、専任講師の人事権に制限を加え、筑波移転に賛同しないものの採用を停止。元文学部長の星野慎一、前文学部長の入江勇起男、および家永の3人の文学部教授の辞職を文学部教授会に要求したが、文学部教授会はこれを拒否した。家永は筑波移転問題を「反動文教政策」の一環であると述べており、教授陣による自治的な大学の運営体制から学長を中心とした中央集権的な運営に移管させること、政府および財界が大学への介入をもくろんでいたことが原因であると主張している。 1973年 筑波大学設置法が制定、筑波移転が正式決定。家永は筑波大学について「きわめて非民主的な、従来の国立大学とは全く異質」な大学であると述べている。筑波移転と改組に伴い文学部の学生募集が停止、家永の定年退官である1977年には同学部定員がほぼゼロとなっていた。
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