本藩との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 09:32 UTC 版)
本藩と支藩のつながりの度合いは事例によって異なる。本藩とは全く別個の場所に支藩が存在する「領外分家」と、本藩の内部に支藩が存在する「領内分家」に分かれる。「領内分家」の中でも、将軍から直接朱印状を受けている支藩を分知分家あるいは別朱印分家と称し、本藩の朱印状の中に支藩についても併記され、朱印状を直接交付されない支藩を内分分家と称した。さらに、内分分家でも新田開発によって増加した分を元に成立した内分分家を、特に新田支藩とも呼ぶ。この場合、新田支藩に与えられた石高は幕府の朱印状には記載されていないため、こうした新田に基づいて成立した支藩も朱印状に記載されない場合があった。 完全に本藩の統制下にあるケース(○○新田藩に多い)もあれば、本藩の統制より独立しているケースもある。後者の場合、常陸水戸藩-讃岐高松藩、陸奥仙台藩-伊予宇和島藩などは本家-別家関係にあるとされる。本藩-支藩関係には家格意識の強さから本家末家論争が起こるなど、個々に複雑かつ特殊な様相を呈している場合がある。その度合いは、幕府が発行する所領安堵の朱印状などの書式で規律されることが多い。あくまでも一般論であるが、独立性の強い順でいうと以下のようになる。 本藩と支藩それぞれに対し、別々に朱印状が発給される場合(宇和島藩や讃岐高松藩の例) 本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高と支藩分の石高が別建てで記載されている場合(「本藩○○石、支藩○○石」…この場合、本藩知行(朱印高)は本来領知を認められて朱印状に記載された分(拝領高)から支藩分(内分高)だけ減少する) 本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高に含まれる形で支藩分の石高が記載されている場合(「本藩○○石そのうち支藩○○石」…この場合、本藩知行は実質では支藩分だけ減少するものの、朱印高は維持された) 本藩宛ての朱印状に支藩が併記されず、支藩宛ての朱印状も発給されない場合(○○新田藩に多い…新田開発分は幕府が検地などで公認したものでないため拝領高とは看做されなかったため) 領外分家は事実上独立した藩としての経営を行っているため、支藩とみなさない説もあり、実際に本家と領外分家の間では家格を巡る争いが生じることがあった。分知分家の場合、財政は独立採算でその統治も本藩からの一定の自立が認められていた。内分分家の場合、財政は本藩に従属しており、その家臣は本藩の陪臣とみなされることもあるなど、本藩の強い影響下に置かれた。新田分藩の場合には、秋田新田藩や肥後新田藩のように藩主の江戸定府が義務付けられて、実際には本藩によって統治されている名目だけの藩もあった。 御三家(尾張藩・紀州藩・水戸藩)にはそれぞれ御連枝と呼ばれる支藩が存在した。また、陪臣ではなく直臣の資格で大身の御附家老と呼ばれる家臣がおり、これも支藩とみなされることがある。 水戸徳川家の分家である陸奥守山藩に残る記録では「(本藩である)水戸藩の領民だ」と吹聴する者がいたとされ、支藩は本藩に遠慮するものと領民レベルでまで考えられていたようである。 なお、国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での幕府老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。
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