本圀寺の変
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本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年1月5日(1569年1月31日)に三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らが下京郊外の六条本国寺(本國寺、江戸時代以降は本圀寺)に籠る室町幕府15代・将軍足利義昭を襲撃した事件とそれに続く合戦である。本圀寺合戦、六条合戦とも呼ばれる[1]。
- ^ 『 足利季世記』は本国寺合戦といい、『信長公記』は六条合戦を用いている。
- ^ ルイス・フロイスの『日本史』によれば、永禄の変で自害した義昭の母(慶寿院)の住居を本国寺が松永久秀の許可を得て寺内に移築していたため、義昭とその家臣は上洛すると直ちにここに住むと決め、翌年の三好三人衆の襲撃まで住み続けていたという。しかし『言継卿記』によれば、義昭は10月14日から16日まで本国寺にいた後細川邸に入り、10月末に本能寺に移った。12月14日には山科言継が本能寺の義昭のもとに参じた。12月21日に幕府奉行人は本能寺に対し「当寺は軍勢の寄宿について度々禁制を得ているが、今度御座所を移されたからには、今後はいよいよもって禁止する」旨の文書を出している。『永禄記』は、義昭が三人衆の襲撃前に本能寺では兵が入りきれないとして本国寺に移ったとしている。義昭自身が本能寺にいて不在の間は、そこに入れない在京幕府軍が本国寺に駐屯していたと思われる。義昭が本能寺を居所とした理由は、執務・対面の都合や、武装を解き少数の供のみで洛中に起居して「天下静謐」の実現を示そうとしたことなどが考えられる。
- ^ 『 足利季世記』によれば、京中の法華宗僧侶らが「このまま攻め続けられては三好氏が代々崇敬してきた本圀寺の滅亡であり、将軍には他所に移ってもらうのでそこを攻めればよい」と諭したため、三人衆は金光寺(七条道場)に退いた。この説得は、翌日将軍側の後詰の勢が攻め上ってくるという注進を受けた上での策謀であったと伝わる。
- ^ フロイス『日本史』より。
- 1 本圀寺の変とは
- 2 本圀寺の変の概要
- 3 経緯
- 4 合戦の経過
- 5 合戦後
- 6 外部リンク
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