和田・高山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。 翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。 しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571年)8月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られた。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。 この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。
※この「和田・高山時代」の解説は、「芥川山城」の解説の一部です。
「和田・高山時代」を含む「芥川山城」の記事については、「芥川山城」の概要を参照ください。
- 和田・高山時代のページへのリンク