有数の百貨店グループから日本最大の流通グループへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 00:06 UTC 版)
「西武百貨店」の記事における「有数の百貨店グループから日本最大の流通グループへ」の解説
1992年、和田繁明が会長に就任。堤清二のもと管理機能が不在となり、あらゆる弊害が顕在化している現状を痛烈に批判した『西武百貨店白書』を公表。この中で「百貨店は構造不況」だと指摘している。 バブル崩壊に伴う過去の不動産への過剰投資が重荷となり、パルコ等セゾン文化の中で養われた独自ブランドを手放し、更に最大の収益力を誇る池袋本店を不動産投資信託化して1000億以上の資金を調達するなどして再建に取り組んだ。しかし1999年「和田との交渉には応じない」とまで言われるほど銀行側との折り合いが悪くなり和田は突如退任を余儀なくされ、完全に身を引いた。しかしながら、銀行からの要請もあり、2000年に民事再生法の適用を申請し経営破綻したそごうに特別顧問(のち社長)として和田が就任。和田は、西武百貨店の経営手法を多く取り入れる手法で(しかし、西武百貨店とそごうとの資本提携は行わずに)そごうの経営再建を進めた。当時、本部社員が大量に十合に出向したのち一旦退職しそのまま十合でそっくり再雇用という形態で人材を流出させており、後年の西武百貨店とそごうの経営統合まで視野に入れていたとみられる。 西武百貨店の再建にやや明るい兆しが見えて来た所で、西洋環境開発の不良債権処理をめぐりセゾングループの経営危機が表面化。傘下にあった西武百貨店にも再び経営不安がささやかれた。再建は2200億円の債権放棄を軸とする「私的整理」という形で進められた。このとき、西武百貨店を救済したのが、西武百貨店の経営手法を取り入れて経営再建したばかりのそごうを傘下に収めていた「株式会社十合」であった。2003年から2004年にかけ後藤高志らの支援で十合が西武百貨店の第三者割当増資を段階的に引き受け、さらに株式交換を行う形で西武百貨店を完全子会社化し、株式会社十合がミレニアムリテイリングに商号変更したことで、そごうと西武百貨店の経営統合が実現。高島屋に次ぐ国内2位の巨大百貨店グループが誕生することになった。この事業持株会社方式の経営統合が、双方ののれん(屋号)を維持しながら経営の合理化を実現した点で、のちに行われた大手百貨店どうしの経営統合に少なからず影響を与えている。 その後、再建を確かなものとするためにミレニアムリテイリングは野村プリンシパル・ファイナンスなどを引受先とする増資を行い、事業持株会社として株式上場を目指していたが、野村プリンシパル・ファイナンスと西武百貨店の間で上場時期を巡る意見の対立が顕在化したことに加え、敵対的買収防衛策の観点から、2005年12月にミレニアムリテイリングの代表であった和田がセブン&アイ・ホールディングスの傘下入りを決めた(自らは2007年健康上の問題が理由として引退)。この結果、かつてのセゾングループに匹敵する、国内最大級の流通グループが誕生した。
※この「有数の百貨店グループから日本最大の流通グループへ」の解説は、「西武百貨店」の解説の一部です。
「有数の百貨店グループから日本最大の流通グループへ」を含む「西武百貨店」の記事については、「西武百貨店」の概要を参照ください。
- 有数の百貨店グループから日本最大の流通グループへのページへのリンク