月探査の再開
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1961年4月12日、ボストーク1号が世界初の有人宇宙飛行に成功し、有人宇宙飛行においてもソビエトがアメリカに先んじることになった。これを受けて1961年5月、アメリカ大統領のケネディが10年以内の有人月着陸で巻き返しを図ることを表明し、米ソともに有人月飛行が次の目標に据えられた。 ソ連は有人月飛行の調査と技術開発のためルナ計画を再開した。ルナ4号から14号では新規に設計された重量1.5トンのE-6(Ye-6)シリーズを使用した。E-6はユニットを取り替えることで月着陸にも周回にも対応できた。これは、対するアメリカが衝突用のレインジャー、着陸用のサーベイヤー、周回用のルナ・オービターと3種類の探査機を開発したことと対照的である。打ち上げには従来のボストークロケットより高性能なモルニヤロケットを使用した。 アメリカは1962年に月へ向けてレインジャー探査機のブロック2(3号-5号)を飛ばしたが、いずれも失敗に終わった。1964年にはレインジャーのブロック3(6号-9号)で再度月探査に挑戦し、6号を除いて成功を収めた。アメリカは続いて着陸機と周回機の準備を進めた。一方のソ連は1963年に世界初の月面軟着陸を目指してE-6探査機の打ち上げを開始した。当初は失敗が続き、3年間の間に11機もの探査機が失われたが、サーベイヤーの運用が始まる5ヶ月前の1966年2月3日にルナ9号が世界初の月軟着陸を成し遂げた。さらに1回の失敗を挟んで1966年4月3日にルナ10号が世界初の月周回探査機となった。 ルナ11号は月周辺の環境や月の表面を調査し、ルナ12号は軌道上から月面を撮影した。ルナ13号は改良型の月着陸機で、月面の撮影や土壌の調査を行った。2回の失敗の末に1968年4月7日打ち上げられたルナ14号は、有人飛行のための宇宙船の通信や追跡の実験台となった。 ルナ計画は一定の成果を収めていた一方、ソ連の有人月着陸計画(L3計画)の遅れは決定的なものとなっていた。月接近飛行(L1計画)はまだアメリカに先んじる望みがあり、1968年3月以降、ルナ計画とは別に月接近飛行のテストフライトとしてゾンド宇宙船が打ち上げられた。ところが宇宙船はトラブルが相次ぎ、有人打ち上げが延期されている間に、1968年12月にアメリカのアポロ8号が世界初の有人月周回を成功させた。これによりソ連はアメリカの逆転を許すこととなった。
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