最強のファーストレディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:40 UTC 版)
「ファーストレディ」の記事における「最強のファーストレディ」の解説
20世紀になって世界各地に独裁的長期政権が誕生すると、強烈な個性と政治力を持ったファーストレディが登場して時に紙面を賑わせた。そうした中には、その人気から政権に多大な安定をもたらした者(エヴァ・ペロン)や、逆に不人気から国を傾けてしまった者(イメルダ・マルコス)、夫から副大統領指名されその死後自ら大統領に昇格した者(イサベル・ペロン)や、逮捕されて死刑判決を受けた者(江青)まで、さまざまなファーストレディがいた。 では「世界最強の男」といわれるアメリカ大統領の夫人はどうなのかというと、その一貫して控えめな姿勢は意外なほどで、政治に容喙(ようかい)するようなファーストレディはこれまでほとんど存在しなかった。 唯一の例外がウッドロウ・ウィルソン大統領夫人のイーディスである。第一次世界大戦の戦後処理や国際連盟の設立などに奔走していたウィルソン大統領は、1919年9月25日に過労で倒れ、さらに10月2日には脳梗塞を発症した。この結果、ウィルソン大統領には左半身不随や左側視野欠損、言語症などの障害が残ってしまい、実質的な執務不能状態に陥った。しかし、大統領府は大統領の執務不能という事態を秘匿し、副大統領や議会関係者を一切ホワイトハウスに近づけさせず、以後長期に亘ってイーディスがすべての国政を決裁した。こうした事実が明らかになったのは実にウィルソンの死後になってからのことで、これが後の大統領権限の継承順位を明文化した憲法修正第25条制定への伏線となった。 ホワイトハウスを去った後に公職に就いたファーストレディもこれまでに2例しかない。1946年から1952年までアメリカの国連代表を務めたエレノア・ルーズベルトと、2001年1月から2009年1月まで上院議員を務め、その後オバマ政権の国務長官に就任したヒラリー・クリントンである。この2人は共に「最強のファーストレディ」と呼ばれたが、夫のフランクリン・ルーズベルト大統領の死去後に隠棲しようとしていた矢先に請われて国連代表に就任したエレノアと、夫のビル・クリントン大統領が当初から「ひとつ分のお値段でふたつ分のお買い得」と評し、全幅の信頼を置くアドバイザーとして閣議にも臨席させたヒラリーとはその内容が大きく異なる。2008年の大統領選の民主党予備選にも出馬して歴史的激戦を戦い抜き、2016年の大統領選では民主党の予備選を勝ち抜いて合衆国史上初の二大政党の女性大統領候補となったヒラリーは、アメリカのファーストレディとしては異色の存在であることは間違いない。 先代のファーストレディ、ミシェル・オバマは、アイビーリーグの名門プリンストン大学を卒業後、難関ハーバード・ロー・スクールで法務博士号 (J.D.) を取得。その後、弁護士資格を得てシカゴの法律事務所で職を得たのを皮切りに、シカゴ市役所企画開発部門の副委員長、非営利団体パブリック・エイリーズ (Public Allies) シカゴ支局事務局長、シカゴ大学学生サービス部副部長、シカゴ大学病院 (University of Chicago Medical Center) 地域部門部長、のち地域渉外担当副院長、ツリーハウス・フーズ (TreeHouse Foods) 社外取締役、シカゴ国際関係会議 (48th Annual ISA Convention, Chicago) 理事などを歴任したキャリアウーマンであった。ホワイトハウスに入る前にこのような専門職を持ち、自身で独自のキャリアを歩んでいたことがあるファーストレディも、このミシェルと前述のヒラリーの2名のみである。
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