晋の国姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 19:01 UTC 版)
後漢代に至り、司馬卬の末裔と称して、河内郡温県孝敬里の名門として家名を存続した司馬氏 では、司馬防の男子8人の評判が高く、全員が字に「達」の字を持っていたため「司馬の八達」と呼ばれた。 中でも次子の司馬懿が聡明さを以って知られ、曹操より腹心として迎えたいという要請を受けている。司馬懿は最初、曹氏に勝る名門としての誇りから仕官を断ったものの、後に求めに応じてその配下となった。曹操の嫡子曹丕と親しかった司馬懿は220年に曹丕が魏の初代皇帝となると重用され、その地位を固めた。 226年、2代皇帝曹叡の代になると、蜀の諸葛亮の北伐が開始され、司馬懿と諸葛亮の知恵比べとも言われる戦いが始まる。魏は武将の張郃が討たれるなど苦戦するが、諸葛亮が234年の五丈原の戦いで病死し、戦いは終わった。3代皇帝曹芳の代になると、曹爽によって司馬懿は一時、名誉職に追いやられるが、息子の司馬師、司馬昭とクーデターを起こし、政敵を誅殺した上で全権を握った(高平陵の変)。蜀漢滅亡後の264年に司馬昭は晋王の爵位を授かる。司馬昭の死後、265年には司馬昭の息子司馬炎は魏の曹奐より禅譲を受けて晋を興す。 しかし、晋は皇族らの起こした八王の乱を契機として短期間のうちに衰退する。これに乗じた匈奴の大首長劉淵が晋より自立して匈奴大単于を称し、漢(後の前趙)を建国する。匈奴の軍勢は、311年に劉淵の跡を継いだ劉聡が洛陽を陥落させ、懐帝を捕らえた(永嘉の乱)。懐帝は劉聡により、酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられた後、313年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて、長安にいた司馬鄴(愍帝)は即位して漢(後の前趙)に抵抗するが、316年、長安が陥落して晋は滅亡した。愍帝は懐帝同様の扱いを受けた後に殺される。 皇族の有力者のうちの一人である琅邪王司馬睿(元帝)は一部の皇族と共に江南に逃れ(五馬渡江)、愍帝が殺された事を受けて即位し、建康に都して晋を再興した。江南に建国された晋を東晋、それ以前の晋を西晋と呼ぶ。 しかし、東晋も廷臣の劉裕の力が強くなり、420年に恭帝が劉裕に禅譲し、劉裕から零陵王に封じられた事により、晋の皇族としての司馬氏は滅亡したが、翌年恭帝が殺された後も零陵王を一族の司馬元瑜が継ぎ、南朝宋・斉の時代まで諸侯王として存続した。東晋滅亡の前後で、司馬叔璠や司馬文思や司馬楚之などの一部の皇族は華北へ亡命し、この中には北魏の貴族として栄えた家系もある。 また、一部には八王の乱の混乱に紛れて華北に残った皇族もおり、この子孫の中には、司馬子如・司馬消難などが居り、この家系の中からは北周の皇后を出すなど繁栄している。
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