晋の勇将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 10:06 UTC 版)
265年に晋が成立すると、司馬炎(武帝)のときに平虜護軍となった。 277年、かねてより涼州一帯で反逆を繰り返していた鮮卑の禿髪樹機能らが、屯田兵を誘拐しようとした。文鴦は、司馬駿の統率の下、涼州・秦州・雍州の諸軍を監督し禿髪樹機能の討伐に向かった。文鴦は一斉に軍を進駐させて威圧をかけ、その勢いのまま涼州の異民族を撃破した。禿髪樹機能は包囲攻撃を受け重傷を負ったため、兵を撤退させた。その後、配下の二十部隊を連れて軍門に降った。この戦いで文鴦は天下に名声を馳せたという。 後に東夷校尉・仮節となり、赴任前に司馬炎に謁見した。しかし司馬炎は、彼に面会するや否や嫌悪感を覚え、別件に託け免職にした(『三国志』諸葛誕伝・『晋書』司馬駿伝)。 291年、恵帝のときに賈皇后(賈南風)がクーデターを起こし、実権を握っていた楊駿一党を殺害した。クーデタ―に参加した東安公司馬繇は諸葛誕の外孫に当り、母が諸葛誕の娘であった。司馬繇は母の一族たる己に文鴦が復讐することを恐れ、文鴦を殺さんと謀り彼の叛逆を誣告した。其の為に文鴦の三族は皆殺しとなり、文鴦も殺された(『晋書』司馬繇伝)。
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